【キングダム】楚とはどんな国?戦国七雄から考察してみた!

   

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   出典:https://www.amazon.co.jp/

キングダムでお馴染み、戦国七雄の国々

 
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未だにわからない楚(ソ)の建国事情

 
楚(ソ)は漢民族が発展しきたもとになった黄河文明をからの人々が長江を下って築き上げたという説と黄河文明とは違う全く別の長江文明の蛮人が打ち立てたという説があり、現在も良く分かってはいません。
 
しかし、楚(ソ)で出土する墳墓の埋葬者が、周王朝(シュウオウチョウ)からの伝統である北向きではなく、大部分は南を向いて埋葬されている事から、現在は土着の蛮人が興したのではないかという説が若干、信憑性を増してきています。
 
 

大昔から王と名乗っていた楚(ソ)、その訳は?

 
 
楚(ソ)の建国は、紀元前11世紀に周(しゅう)が建国された後、記録されるようになります。非常にに独立願望の強い国で、6代目の王の熊渠(ゆうきょ)が君臨し、
 
「俺達は野蛮人だから、中華の爵位には服さない!」
 
と発言し、初めから「王」と名乗って抵抗していました。このような態度は、他の六国にはない楚(ソ)独特のものでした。
ところが、周(シュウ)に厲王(れいおう)という残虐な人物が王座につくと、
 
「征服されるかも知れないから、「王」と言うのはやめよう」
 
と危惧して、「王」と名乗るのを止めたりしています。なんか、ヘタレヤンキーみたいでおもしろいですね。
 
 
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伯爵を越える位置にある貴族国である随(ズイ)を滅ぼし 爵号を求めるも退けられ

 
楚(ソ)は17代目の熊通(ゆうつう)の時代に、近隣にあった貴族国である随(ずい)を滅ぼし、見返りに楚(ソ)を侯爵にしてくれと周(シュウ)の王室に請います。
しかし、周(シュウ)はこれを退けたので、楚(ソ)は憤り長い間封じていた王号を再度使い始めました。これにより、楚(ソ)の熊通(ゆうつう)は武王になり、後の歴史上楚(ソ)は代々王を名乗ることとなります。それは紀元前740年頃の事で、七雄の中ではでは一番早いです。
 
 

どんどん強くなっていく楚(ソ)

 
 
楚(ソ)は、武王(ぶおう)から、文王(ぶんおう)、成王(せいおう)の時代に移る、周りの小国を平定して、領土を拡大させていきます。6代目の荘王(そうおう)が君臨すると楚(ソ)はますます栄え陳(ちん)鄭(てい)という小さな国を植民地化して中原の争いに参戦すようになります。
そして、中華の最強国、晋(フ)の軍勢を邲(ひつ)の戦いで破り、荘王(そうおう)は春秋五覇の一人に顔を連ねる程の名君として歴史に名を残しました。
 
 

滅亡の危機に瀕する楚

 
しかし、荘王(そうおう)に継いで即位した共王(こうおう)は、逆に鄢陵(えんりょう)の戦いにおいて晋(フ)に敗れて主導権を失います、このことをきっかけに楚(ソ)は再び下り坂の状態になります。
11代の平王(へいおう)が君臨すると、平王(へいおう)は家臣の伍子胥(ごししょ)の父兄を無実の罪で殺してしまいます。それを恨んだ伍子胥(ごししょ)は、呉(ご)に走り呉王闔閭(ごおうこうりょ)を口説いて楚(ソ)に侵攻させます。楚(ソ)は敗れて、一時、呉(ゴ)によって統治され滅亡の危機を向かえます。
伍子胥(ごししょ)は、平王(へいおう)が既に亡くなっていたので、仇を討てず、苛立ちから平王(へいおう)の墓を暴いて死骸を引き出し鞭で三百回打ったと言います。このことから、死人を容赦なく非難するという意味の「死屍に鞭打つ」という故事が産まれました。
その頃、逃げていた楚(ソ)の家臣、申包胥(しんほうしょ)は助けを請う為に秦(シン)の哀公(あいこう)と面談を果たします。ところが哀公(あいこう)は親族にも関わらず、申包胥(しんほうしょ)の依頼を無視し楚(ソ)を見殺しにします。申包胥(しん ほうしょ)は、そのことを知ると七日、七晩、食事もとらず泣き明かします。
そのことを知った哀公(あいこう)は心を動かされ、戦車500輌を援軍として送りました。これにより楚(ソ)の王は国を奪還することができて、楚(ソ)はギリギリのところで滅亡から免れます。
 
 

時代遅れになっていく楚(ソ)、その理由は?

 
楚(ソ)は、春秋戦国時代に入っても、これといった変化が起こらず、大胆不敵だが古いままの国という印象がつきまといました。それはは国の面積が広い割に人口が少なく地方の統治者の力が強く楚王(ソオウ)の支配力がすみずみまで行き渡らなかったのと、王族や皇族、名門貴族が要職を独占して、新しい人材が育たなかった事が影響しています。
でも、呉起(ごき)のような魏(ギ)の移民者の努力で少しずつ改革は進んでいたようですが、ようやく、改革の成果が現れた頃には七雄の秦(シン)が強大な国になっていて、秦(シン)につくか、斉(サイ)につくかで楚(ソ)国内は二分するという情けないコバンザメ状態になっていきます。
 
 

それでも最期には意地を見せた楚人の激しい気性

 
楚(ソ)は秦(シン)に滅ぼされる寸前にも項燕(こうえん)大将軍が秦軍(シングン)の二十万の大軍を撃ち破る。
 
「例え残り三戸になろうとも秦を滅ぼすのは楚」という項燕(こうえん)の無念の言葉はそのまま、孫の項羽(こうう)に受け継がれて秦(シン)を滅ぼす原動力になります。
楚人(ソジン)は、項羽(こうう)や伍子胥(ごししょ)、屈原(くつげん)といい、性格が真っ直ぐかつ情熱的で直ぐに爆発するという南方系特有の特徴を持っていました。その情熱的な爆発力には、他の六国はかないませんでしたが、一方で、中々、改革を受け入れないルーズな一面もあり、それが進化を遅らせて、戦国の世に変化を起こせなかったように思えます。
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