【キングダム】王翦軍(おうせんぐん)をどこよりも詳しくまとめてみた!

   

キャプチャ

 

王翦ってどんな人?

 

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それでは、王翦軍を語る前に王翦(おうせん)とはどのような人物だったのかキングダムの作中から見ていきましょう!

 

黒い野望を胸に秘めた名門の当主

 

キングダムでは蒙驁(もうごう)の副将として登場し、数多くの武功を上げてきた将軍でした。大将軍となってもおかしくないほどの能力や武力を持ちながらも、王の座を狙っている野心家だとのという黒い噂のためか、重要な任務からは外されていました。

 

トピックス

 

●山陽平定戦では戦場に見事な砦を築き、敵将・廉頗(れんぱ)をうならせたこともありました。

 

絶対に勝つ戦しか興味が無い

 

決して危険を冒さず、危機を察すれば作戦に反して撤退することさえあり、優秀な人物を見つければ、それが敵将であっても降伏し服従を誓った者は自軍に向かいいれるなど不可解な言動も多い。

 

トピックス

 

●仮面の下に隠された王翦(おうせん)の真意を読み取ることは難しい・・・。

 

白起(はくき)に引けを取らない長けた軍才

 

積極性はないが、確実な戦術を用いて兵を動かし、勝利を重ねていく。独断で命令を無視して戦場を混乱に陥れたかと思えば、それが勝利の決め手となるなど、軍略に長けていて、その軍才はいまだ底が知れない。

 

トピックス

 

●廉頗(れんぱ)との戦いで、悠々と退がる王翦(おうせん)の姿がふと白起(はくき)を思い出させたというシーンがありました。伝説の六将に劣らぬ存在だと、あの廉頗(れんぱ)ですら認めていたようです。しかし、廉頗(れんぱ)曰く何かが大きく欠如している武将でもあります。

 

函谷関(かんこくかん)では行方をくらます

 

合従軍襲来(がっしょうぐんしゅうらい)の戦いでは燕将(えんしょう)・オルドと交戦。軍を山中と函谷関(かんこくかん)に向かう軍に二分し、敵の目を混乱させる。その結果燕(えん)の軍は動けず、禍燐(かりん)の別働隊による奇襲から秦(しん)の軍を救った。

 

トピックス

 

●見方ですら欺く巧みな心理戦を展開していました。

 

王翦軍(おうせんぐん)

 

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孟知(もうち)

 

キャプチャ

 

王翦軍の副官。王翦(おうせん)の命令で、オルド軍の主力山岳兵に矢の雨をふらせた。

 

孟竜(もうりゅう)

 

キャプチャ2

 

オルドの生け捕りを王翦(おうせん)に命ぜられた副官。しかしオルドの返り討ちに遭う。

 

史実から今後の王翦軍(おうせんぐん)の活躍を考察!

 

それから、三つの軍をあわせて一つの軍にまとめ、この18日間で軍中の下級の役人より下の武功のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いの軍に再編成しました。そして、それまで落とせなかった鄴(ぎょう)を落します。

紀元前236年(始皇11年)、桓齮(かんき)・楊端和(ようたんわ)らと趙(ちょう)の鄴(ぎょう:現在の河南省)を攻めて先ず周辺の9の城を取ります。その後、王翦(おうせん)とその軍は単独で閼与(あつよ:現在の山西省臨汾市)などを攻めます。

紀元前229年(始皇18年)、秦(しん)は大軍を率いて趙(ちょう)を攻めた。王翦軍は趙(ちょう)の井陘(せいけい:現在の河北省)を平定しました。

趙将・李牧(ちょうしょう・りぼく)と司馬尚(しばしょう)が王翦軍の相対したが、秦が李牧(りぼく)をおとしいれるため、超王の側近を買収し、

ありもしない事を趙王に告げ、李牧(りぼく)のことを悪く言ったため李牧(りぼく)は罪人として処刑されてしまい、司馬尚(しばしょう)は交代させられてしまう。 その後、趙葱と斉将・顔聚が彼らの地位に代わった。

紀元前228年(始皇19年)、王翦軍は李牧(りぼく)が処刑された3か月後に趙葱、顔聚を打ち破り、趙(ちょう)の首都邯鄲(かんたん)を攻め落とした。

また、羌瘣(きょうかい)と共に東陽も平定し、逃げていた趙王・幽繆王(ゆうぼくおう)を捕らえた。しかし、趙(ちょう)の王族が独立して代(だい)の王になると、王翦軍を率いて燕(えん)を攻めようとして中山(現在の山西省北部)に陣を張った。

紀元前227年(始皇20年)、辛勝(げきしょう)と燕(えん)を攻めて燕(えん)と代(だい)の連合軍をに破った。

紀元前226年(始皇21年)、大軍を与えられ、燕(えん)の太子丹(たいしたん)の軍を破って燕(えん)の首都の薊(けい)を攻め落とした。しかし、この年、王翦(おうせん)は老病を理由に将軍を辞して帰る。

紀元前224年(始皇23年)、秦王(しんおう)の頼みを受け、再び王翦軍の将軍として、楚(そ)を攻めた。河南の陳から南の平輿までの地を占領して、楚王・負芻(そおう・ふすう)を捕らえる。

紀元前223年(始皇24年)、蒙武(もうぶ)と楚(そ)を攻める。楚(そ)の王となった昌平君(しょうへくん)は戦死し、項燕(こうえん)は自殺した。

紀元前222年(始皇25年)、秦(しん)は再び大軍を率いて、王翦(おうせん)と蒙武(もうぶ)はついに楚(そ)を平定する。

と、まあこんな感じで王翦軍(おうせんぐん)は活躍していくわけです。

 

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