ざっくりとわかる『白起王翦列伝』(はくき おうせん れつでん)!

   

人気の漫画キングダム、実は史記『白起王翦列伝』を参考に描かれた歴史漫画なんですね。そこで今回は『白起王翦列伝』についてざっくりとご紹介してみようと思います。

 

白起王翦列伝

 

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南は楚(そ)の郢(えい)を落とし、北は趙(ちょう)の長平の戦いで国力を低下させ、ついに趙(ちょう)の首都邯鄲(かんたん)を包囲したのは、武安君白起(ぶあんくん はくき)大将軍であった。

また、楚(そ)をやぶり趙(ちょう)を亡ぼしたのは、王翦(おうせん)の知略であった。

戦国最大の戦、長平の戦いで白起(はくき)は、趙軍四十五万をやぶります。そして、秦(しん)の昭王(しょうおう)の時代、秦(しん)は韓(かん)を攻めて勝利した。

その後、秦(しん)は王齕(おうこつ) に韓(かん)を攻めさせ、上党(じょうとう:現在の長治市)を占領しました。

しかし上党(じょうとう)の民は趙(ちょう)に逃げてしまい、趙(ちょう)は長平に軍陣を敷いて、上党(じょうとう)の民をの反乱や暴動などをしずめて、民を安心させました。

そしてその年の四月には、趙(ちょう)の兵が秦(しん)の偵察隊に戦いを仕掛けたが、秦(しん)の偵察隊は趙(ちょう)の副将を討ち取りました。

六月、秦(しん)の軍は趙(ちょう)の軍陣を攻め、二つの要塞を落とし、四人の将校を捕虜にしました。

七月、趙(ちょう)の軍は砦に壁を築いて守備を堅くしました。しかし秦(しん)はまたその城壁を守る兵らを攻め、二人の将校を捕虜とし、その砦を落とし、さらに西方の城壁をも落としました。

趙(ちょう)の廉頗(れんぱ)将軍はさらに城壁の守りを固くして、秦(しん)の軍が攻めてくるのを待った。

秦(しん)の軍は何度か攻め込んで来たが、趙(ちょう)の軍は城壁にたてこもって敵を防いでいるだけで攻撃はしませんでした。

趙(ちょう)の王は、廉頗(れんぱ)の戦いぶりをしばしば文句を付けました。

秦(しん)の首相范雎(はんしょ)は、人を送って趙(ちょう)の人達に賄賂を贈り根拠のない噂を流しました。

それは、 「秦(しん)が警戒しているのは、ただ馬服君(趙奢)の子の趙括(ちょうかつ)が将軍になることで、それをおそれているだけだ。廉頗(れんぱ)はたいした相手ではない。そのうち、秦(しん)に降参するだろう」

という内容の噂でした。

趙(ちょう)の王は、前々から、廉頗(れんぱ)の軍に戦死者や逃亡者が多く、連敗しているのに、廉頗(れんぱ)はかえって城壁を強化するばかりで、ほとんど戦わないと怒っているところへ、

また秦(しん)の流した噂を聞いたので、趙括(ちょうかつ)を廉頗(れんぱ)に代えて将軍とし、秦(しん)の軍を撃たせました。秦(しん)は趙括(ちょうかつ)が将軍になったと聞くと、武安君白起(ぶあんくん はくき)をひそかに大将軍とし、王齕(おうこつ) を副将として配置しました。

軍陣中に、白起(はくき)が将軍として赴任したことを漏らす者は斬罪にするとお触れを出していました。

趙括(ちょうかつ)は到着すると、兵を出して秦(しん)の軍を攻めました。秦(しん)の軍は敗走するふりをして、二手に待ち伏せの兵を忍ばせておき、趙(ちょう)の軍を待ち伏せ攻撃する計画にでました。

趙(ちょう)の軍は勝ち急いで追撃し、秦(しん)の城壁まで迫ったが、城壁を守る兵がしっかりと固い守りに徹したので、突入できませんでした。

そこへ待ち伏せていた兵の一手の二万五千が趙(ちょう)軍の背後を断ち切り、また、もう一手の五千の騎馬兵が趙(ちょう)の軍とその城壁の間の連絡を遮断しました。

そのため、趙(ちょう)の軍は二つ分断され、補給も絶たれました。そこに秦(しん)の軍は歩兵をだして攻撃を続けました。

趙(ちょう)の軍は、やむをえず壁を築いて守りに徹し、援軍の到着を待つことにしました。

秦王は趙(ちょう)の補給路が途絶えたと聞くと、自ら赴き、秦(しん)の民にそれぞれ位を上げてやると、十五歳以上の者を徴発して長平に行かせ、趙(ちょう)の援軍および補給を断ちました。

九月になると、趙(ちょう)の兵らは補給が絶たれて四十六日となり、内部ではひそかに殺しあって食うにいたっていました。

そして、秦(しん)の城壁に攻撃を仕掛けて脱出しようとし、四隊を組織して四たび、五たびと繰り返したましたが、脱出はできませんでした。

将軍趙括(ちょうかつ)は精鋭軍を率いて自らも奮戦したましたが、秦(しん)の軍は趙括(ちょうかつ)を弓で射り討ち取りました。

趙括(ちょうかつ)の軍は敗北し、その兵四十万が白起(はくき)の捕虜となりましたが、白起(はくき)は考えました。

「さきに秦は上党を攻略したのだ。ところが、上党の民は秦(しん)の民となることを悦ばず、趙(ちょう)に帰属した。趙(ちょう)の兵たちは簡単に裏切ることは分かっているので、すべて殺してしまわなければ、おそらくは反乱を起こすだろう」と、

そこで、ことごとく穴埋めにして殺し、小児二百四十人だけを残してて趙(ちょう)に帰らせました。

戦前戦後をとうして、首を斬った者および捕虜にした者は、四十五万人でした。趙(ちょう)の人々は白起(はくき)をとても恐れました。

 

王翦、六十万の兵で楚をやぶる

 

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王翦(おうせん)は兵六十万(秦のほぼ全兵力。反乱可能!)の大将軍となった。秦王・政(しんおう・せい)は、王翦(おうせん)の出陣を、自ら送っていった。

王翦(おうせん)は、その途中、上等の田畝・宅地・園池をもらい受けたいとしきりに請願した。 それに対し政(せい)は返した。

「将軍よ、出かけなさい。貧乏など心配する必要があろうか」

それに対し王翦(おうせん)は、

「大王の将軍たる者は、いくら武功がありましても、高い位に上り詰める見込みはありません。ですから、大王の御心が私に寄せられております間に、私も機を逃さずに園池を請願し、子孫の財産をつくっておきたいと思うだけです」  

政は大笑いした。

王翦(おうせん)は函谷関(かんこくかん)に到着してからも、使いの者を出し、五度も上等の田畝を請願した。

ある兵が、

「将軍のおねだりは度を越している」  

というと、

王翦(おうせん)はそれに答えた。

「そうではない。あの秦王・政(しんおう・せい)は粗暴で人を信じない。いま、秦(しん)の国内の武装兵を空にして、私に委ねているのだ。

その私が、野心のないこと(反乱を起こさないこと)を示すために、田畑・宅地を多くもらい受けたいと請うて子孫の財産をつくり、自らの保身とでもしないと、かえって、秦(しん)の王は私を疑うようになるのではないか」

こうして王翦(おうせん)は李信(りしん)に代わって楚(そ)を攻めることになった。

一方、楚(そ)では、王翦(おうせん)が兵力を増ふやし、大軍をひきいて攻めてくると聞くと、国中の兵を呼び寄せて秦(しん)の大軍からの守備を固めようとしていた。

王翦(おうせん)は到着すると、砦を作り、その周りを城壁で固め、守備に徹し、戦おうとしなかった。

楚(そ)の軍は何度か攻めてきたが、城壁から外に秦(しん)の兵達は出てこなかった。王翦(おうせん)は、毎日、兵を休養・水浴させ、飲食物を豊富に与えて、手厚くねぎらい、自分も兵と共に食事をした。

しばらくしてから、王翦(おうせん)は陣中に部下を行かせ、

「どんな遊戯をしているのか」  

と問わせると、

「石を投げたり、跳んだりはねたりしております」  

という答えが返ってきた。

すると、王翦(おうせん)は言った。

「よし。我が兵達は心身ともにすこやかで、戦闘に用いることができる」。

一方、楚(そ)の軍は何度と無く攻めてみたが秦(しん)の軍は戦いを始めないので、引き上げて東に向い進軍し始めた。

王翦(おうせん)はその機を逃さなかった、全軍をあげてこれを追跡し、精鋭部隊に総攻撃をさせて楚(そ)の軍をめった打ちにし、楚(そ)の将軍項燕(こうえん)を討ちとった。

そして、残った楚(そ)の軍は敗走した。

秦(しん)の軍は勝ちに乗じて楚(そ)の城を次つぎと落として平定し、一年余りで楚(そ)の王を捕虜にして、ついには楚(そ)の領土を占領した。

そして、そこに基盤を据え、南方を統治していた君主を100人以上征服していった。

その後、王翦(おうせん)はその子王賁(おうほん)と共に燕(えん)や斉(せい)にも出陣し、勝利しその地を平定していった。

かくして、秦(しん)の始皇帝が中華を統一して二十六年の間にあちこちで国を一つにまとめていったのだった。王氏・蒙氏は功多く、名声は後世にまで伝えられた。  

 

太史公(司馬遷:しばせん)曰く、

 

古い諺に「尺も短きところあり、寸も長きところあり」とある。白起(はくき)は敵の力を計って事変に応じ、奇策を練ることに長けていた、その名声は天下を震わせた。しかし、秦(しん)の政治家との間に生じた災いを切り抜けることはできなかった。

王翦(おうせん)は秦(しん)の将軍として六国を制した。その当時、王翦(おうせん)は年老いた将軍であり、始皇帝は師と仰いだのである。

しかし、秦(しん)の王をが政治を行うのを、助けつつも、私利私欲にはしり、国の土台を堅固なものにすることができず、いたずらに始皇帝と調子を合わせてその意にかなう態度をとり、そのまま死んでしまった。

だから、孫の王離の代になって項羽に捕虜にされたが、当然のことではないか。白起(はくき)・王翦(おうせん)にも、それぞれ短所があったのである。

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