【キングダム】信(しん)には子供がいた!しかも子孫は漢の皇帝 !?

   


 

【キングダム】信(しん)には子供がいた!しかも子孫は漢の皇帝 !?

 

漫画キングダムがはじまってから、話題となっているのが主人公の信(しん)のモチーフとなった秦(しん)の武将・李信(りしん)です。

今までにも大河ドラマや映画で有名になった人物の書籍などは、まるで出版社と本屋、さらには専門家が示しあわせたように発売され、それなりに話題を集めていました。

でも、歴史的に有名な人物は、言ってしまえば、ある程度出尽くしているのではないでしょうか。

ところが、そこで李信(りしん)のような、まだ世に知られていない謎の多い人物を取り上げた漫画『キングダム』の作者原泰久先生の物事の本質や真偽を見分ける洞察力はなかなかのモノですね。

漫画『キングダム』の主要なキャラクターは、主人公の李信(りしん)をはじめ、通常ならば始皇帝という、圧倒的に偉大でカリスマ性に富んだ人物の影で目立つことのない人物が脇を固めており、

ある意味、「下級兵士」や将軍の立場から秦(しん)という古代中国の国の浮き沈みをかいま見ることができるわけです。

漫画『キングダム』影響なのか、最近では大河ドラマや小説も、あまり有名ではない人物の視点から製作されることが多くなってきました。

それだけ一般の視聴者にも歴史的な知識が浸透してきたのかと思われるわけです。

今回、漫画『キングダム』で取り上げられた李信(りしん)と言う人物、いったいどんな人物だったのでしょう?

李信(りしん)絡みた秦(しん)という国の浮き沈みはどのようなものだったのでしょう?

そして、

李信(りしん)の子供や子孫はどうなっているのでしょうか?

そんなところを考察していきたいと思います。

 

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李信、実はよくわからない謎の人物 !?

 

漫画『キングダム』の作中では、信(しん)は少年として登場し、その出生は戦争孤児で下僕という設定になっています。

一方、史実に記されている李信(りしん)はどのような生い立ちなのでしょうか?

実は、その生い立ちはまったくの謎です !?

それは、李信(りしん)に関する史実の記録は『史記』にしかなく、その『史記』の記録の中にある王 翦列伝(おうせんれつでん)の記録の中に点在して記されているので、それらを抜き出しまとめていくしかないからです。

しかも、李信(りしん)の来歴などはいっさい記されておらず、大きな戦に加わったとか、どこを攻めたとかいうことが、記されているだけなのです。

少しくらいは李信(りしん)についての個人的な記述があってもよさそうなのですが、残念ながら李信(りしん)の伝記は存在しません。

李信(りしん)が『史記』の記述の中にはじめて登場するのは、“紀元前229年~紀元前228年”で、かの名将王翦(おうせん)が趙(ちょう)を本格的に攻めにかかった時のことです。

漫画『キングダム』も連載されて10年もたちますが、史実上では李信(りしん)の初登場にもいたっていないわけです。

その間我々読者は原先生の創作フィクションを見せられていたわけです。

まあ、おもしろかったからいいんですけどね!

その後、李信(りしん)の記述が出てくるのは、紀元前226年に秦王・政(しんおう・せい)の暗殺未遂事件が起こったあたりです。

政(せい)が暗殺者を送った燕(えん)に対して報復攻撃をおこなうため燕(えん)を攻めることを決意したときに、

王翦(おうせん)・王賁(おうほん:王翦の子供)が燕(えん)の都・薊(けい:現在の北京)を攻め落としましたが、燕王・喜(えんおう・き)と太子丹(たいし たん)は遼東(りょうとう)に敗走しました。

この時に李信(りしん)が1000の兵を率いて敗走する燕(えん)の軍を追撃し、暗殺の首謀者である太子丹(たいし たん)を討ち取ったと記されています。

ここまでを見ていると、李信(りしん)という人物は、あの名将王翦(おうせん)と常に行動をともにしており、戦に長けた武将であったことは間違いないようです。

そして、『史記』に名を刻まれるほどの偉大な人物でもあったことがうかがえますが、実態に関しては、まったく謎だらけですね!

『史記』の記録の中に、李信(りしん)が残した最も詳しい記録は、なんと敗戦でした !!

紀元前225年、いよいよあの大国・楚(そ)を攻め滅ぼそうと立ち上がった秦王・政(しんおう・せい)でしたが、その時にどれくらいの兵が必要かと王翦(おうせん)と李信(りしん)に尋ねます。

李信(りしん)は

「20万もいれば十分」

と答えますが、

王翦(おうせん)は

「60万は必要です」

と返しました。

秦王・政(しんおう・せい)は当時の秦(しん)が勢いにのっていて負け知らずだったこともあり、王翦(おうせん)はもうろくしてしまったと思い込んでしまったようです。

そして、李信(りしん)に20万の兵を与え、蒙恬(もうてん)とともに楚(そ)を攻めることにしたのです。

李信(りしん)は20万の兵を自軍と蒙恬(もうてん)との軍とにわけ、順調に勝ち進んでいき、楚(そ)の都・郢(えい)の周辺の城を制圧します。

ところが、楚(そ)の名将・後燕(こうえん)に奇襲攻撃を受け、将の7人を失うほどに惨敗してしまいます。

このことを知った秦王・政(しんおう・せい)は、隠居していた王翦(おうせん)を呼び戻して李信(りしん)と交代させます。

王翦(おうせん)は蒙恬(もうてん)の父である蒙武(もうぶ)とともに60万の兵を率いて、後燕(こうえん)を討ち取り、楚(そ)を滅ぼしてしまいます。

これではまるで、李信(りしん)は王翦(おうせん)のいい引き立て役ですね!

この時点で、残る敵国は、燕(えん)・代(だい)・斉(せい)の三国となったわけです。

李信(りしん)はその後、これらの国を滅ぼす戦すべて加わり、結果的には秦(しん)の中華統一に貢献したのです。

それと同じくして、李信(りしん)は『史記』の記録から姿を消してしまいます。結婚したのかとか、子供ができたのかとか、どのような最期を迎えたのかなど、以後どうなったのかまったくわからずじまいとなってしまうのです。

 

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ウソかホントか !? 『新唐書』に記された李信の家系図 !!!

 

時は流れ800年後の唐(とう)の時代

唐(とう)を建国したのは北方の民族・鮮卑(せんぴ)の流れをくむ李淵(りえん)でした。

その唐(とう)に関して、後の時代に作られた『新唐書』では、李淵(りえん)をたどる李氏は、実は老子(老子の本名が李耳だから)の子孫、そして、老子のルーツをたどると、なんと李信(りしん)の子孫であるということから、李氏の家系についての記述がなされているのです。

そのほかにも、前漢武帝(ぜんかん ぶてい)の時代に匈奴征伐(くど せいばつ)で知られる李広(りりよう)は『史記』『漢書』では李信(りしん)の子孫であると記されていますが、その間の世代についての記述はなにも記されてはいません。

しかし、李陵(りりょう?)たちの家系はかつての隴西李氏(ろうせいりし)と呼ばれる武門の家柄としても知られる家柄のようでした。

隴西(ろうせい)とは、ちょうど秦(しん)の咸陽(かんよう)の近くにあった地域のことですので、李信(りしん)が秦(しん)以外の国の出身ということでなければ、つじつまが合いますね。

それでは、ここでは推測も含めて、『新唐書』、『史記』、『漢書』の記録を無理やりつなぎ合わせて、李信(りしん)の一族について考えて見ましょう。

李信(りしん)がいつこの世を去ったかについてはわかりません。

しかし、その後に項羽(こうう)や劉邦(りゅうほう)といった戦国時代の英雄的武将とまったく対戦した形跡がないということは、その当時にはすでにこの世を去っていたと考えるのが普通ですよね。

始皇帝が49歳でこの世を去っているのですから、医学が進んでいないこの時代には30代から40代で死んでしまうことも珍しくはなかったことでしょう。

『新唐書』では、最終的に李信(りしん)は大将軍・隴西侯(ろうせいこう)にまで昇進しています。

大将軍といえば、もちろん軍の最高幹部、そんな人が国が滅亡しようとしているときに、何もしていない?記録すら残っていないというのはあまりにも不自然と思われますので、李信(りしん)が若くしてこの世を去っていたことは間違いないとしておきます。

李信(りしん)の子供には李超(りちょう)という人物が記されています。

細かいことはわかりませんが、いきなり漢(かん)の大将軍・漁陽太守となっています。

秦(しん)の大将軍の子供ということであれば、いきなり出世しても、まあ、おかしくはないことと言えばそうなのかもしれませんが、少しばかり違和感を感じてしまいますね。

ちなみにtorajirouが、なんとなく気になったので、『史記』『漢書』の歴代の官職就任者を調べてみましたが、李超(りちょう)が、生きていたであろうと思われる時代はほとんど空白で、李超(りちょう)のどこにも記されてはいませんでした。

『新唐書』では、李超(りちょう)には2人の子供がいて、そのうち弟の方が李仲翔、その子供が李白考、そしてそのまた子供が李尚、その子供が李広となっています。

『史記』によれば、李広は紀元前166年に匈奴(きょうど)征伐で功積をあげて、時の文帝の側近となっていましたが、李広の死はそれから50年もたった紀元前119年に遠征失敗の責任をとらされて自害したということです。

ということは、文帝の側近となった時が二十代か三十代として、『新唐書』の記録を信じるならば、李広は李信(りしん)より五代後の子どもいうことになり、たった50年の間に6世代もの人物が登場していることになります。

この計算だと、仮に親子の年齢の差を25歳だとしても、李信(りしん)はかなり高齢でなければなりませんね。

高齢ということであれば、項羽(こうう)や劉邦(りゅうほう)が生きていた時代にあっても、戦に加わることができなかったとしても、おかしくはないですね。

ちなみに、李広の子供で長男の李陵の父となる李当戸(りとうと)は紀元前134年に武帝の側近を殴ったということが記されていて、間もなく亡くなっています。

李陵は父親が亡くなる直前に生まれた子供です。

李当戸の正確な死の年代はわかりませんが、李陵と司馬遷が友達同士だったことを考えると、李陵は司馬遷と同世代である可能性が高いですね。

司馬遷が亡くなったのは紀元前145年説と紀元前135年説があるのですが、この記事では李陵の父がこの世を去ったときに近い紀元前135年説を採用しましょう。

李陵が生まれた時に祖父の李広は生きているので、李広はおそらく孫が生まれた時に40代後半から50代なかばくらいでしょうか、

そうすると、李当戸がこの世を去ったのはおよそ20代なかばから30代くらいだと推測できます。

ここからは逆算して、李広が紀元前180年くらいの生まれだとすると、五代後の子どもの先祖の李信(りしん)は、親子の年齢差を25歳と設定するならば、紀元前305年くらいの生まれとなります。

であれば、始皇帝の中華統一の時点ですでに70歳を過ぎた老人ということになってしまいますね!

現在出版されている中国古代史の本では王翦(おうせん)よりも若くて生きのいい将軍であるという見方が主流ですがね。

『史記』の王翦列伝(おうせんれつでん)でも

「李信(りしん)は年若くして強壮で秦王から新任を受けて軍を任された」。

と記されているので、通常は若い将軍として認識されています。

いずれにしても、ありえないことではありませんが、李信(りしん)が老将だったというのはちょっと想像しがたいですよね。

話しは変わりますが、李氏の家系図は後の時代においても地方長官や将軍を出している名門として有名であり、その中でも五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)の西涼(せいりょう)の君主にもなっています。

西涼(せいりょう)が滅ぼされると、李一族は特別に保護を受けて後の時代まで生き残り、やがては唐王朝(とうおうちょう)の皇帝となる李淵(りえん)にまで続いていきます。

唐王朝の家系は別としても、李信(りしん)の家系は彼の死後も長い間名門としてその名を残す価値があたように思われます。

しかし、どうしてこれほど長い間歴史に名を残した家系の元祖ともいえる人物の記録が簡素な記述で終ってしまっているのでしょう。

実は、秦(しん)が滅亡した時に秦(しん)の歴史に関する書が破壊もしくは焼失してしまったとする説があるのです。

そのせいなのか、残った秦(しん)の歴史の書は残さず劉邦(りゅうほう)たちによって納められたようです。

その後、その秦(しん)の歴史の書をもとに司馬遷(しばせん)が『史記』を制作したと考えられているのです。

 

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まとめ

 

どうですか?

実はですね、李信(りしん)とともに行動していたかつての秦(しん)の名将王翦(おうせん)に関しても前歴などはまったくわかっていないのです。

記録が記された時点で既に子供や孫がいるので、老将であったことは間違いないようなのですが、その当時の考え方としては皇帝でもない一将軍の前歴など、誰も興味なかったのかもしれませんね。

もちろん『史記』が書かれるまでに資料がそろっていた人物に関してはちゃんと記されているので、一概に興味ということだけで片付けてしまうわけにはいきませんが・・・。

ちなみに、李信(りしん)の子供も、王翦(おうせん)の子供も、後の時代には中国を代表する名門となっています。

しかし、本当は自分が成り上がるため、それっぽく見せるために同じ名前の名門の出をアピールしただけなのかもしれませんね。

兵馬俑(へいばよう)の発掘調査も徐々に進んできていますので、今後その当時の詳細な状況がわかる日も近いかもしれませんよ。

興味津々ですよね!

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