【漫画キングダム】の主な登場人物を史実と照らし合わせてみた!

   


 

目次

【漫画キングダム】史実と登場人物の紹介

 

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漫画キングダムは、原泰久(はらやすひさ)先生の古代中国を部隊にした漫画作品です。

 

原泰久(はらやすひさ)先生の経歴

 

・大学3年生の頃、漫画家を志す。

・1997年、第36回ちばてつや賞ヤング部門にて「上田君の退化論」が期待賞を受賞。

・卒業後、プログラマーとして就職する。(3年間勤めて退社。)

・1999年、第40回ちばてつや賞ヤング部門にて「於兎松」が準大賞を受賞。同作が『別冊ヤングマガジン』に掲載されデビュー。

・2003年、第23回ヤングジャンプ月例MANGAグランプリにて「覇と仙」が奨励賞を受賞。

・2006年、『週刊ヤングジャンプ』9号より「キングダム」の連載を開始する。

・2012年、NHK BSプレミアムにて「キングダム」がテレビアニメ化される。

・2013年、第17回手塚治虫文化賞にて「キングダム」がマンガ大賞を受賞。

・2013年、出身地である佐賀県三養基郡基山町にて町内初のふるさと大使に任命される。

では、

あの登場人物は史実的に存在したの?

実際はどんなことをしてた人物だったの?

といったことを主題として漫画キングダムの作中の設定とともに史実をまとめてみました。

漫画キングダムは古代中国の春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年・信(しん)と後の始皇帝(しこうてい)となる秦王・政(しんおう・せい)の活躍を中心に、戦乱の世を描いた作品です。

単行本の累計発行部数は1200万部以上。

 

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信(しん)←この物語の主人公

 

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漫画キングダムでの信(しん)

戦争で両親を亡くした少年。奴隷のような生活から自分自身の力で『天下の大将軍』になることをめざします。

漫画キングダムの第1話の冒頭で「李信将軍(りしんしょうぐん)」と呼ばれています。

短期で猪突猛進な性格で、自分の意志をまっすぐに突き進む正義感を持っています。

しかし、躾(しつけ)がなっておらず、秦王(しんおう)である嬴政(えいせい)をも普通に呼び捨てにしています。

相手が強い相手であってもそれに合わせて自分の実力を上げていくといった資質の持ち主。

親友の漂(ひょう)いわく、

「自分が勝てない相手に信(しん)は勝つことができる」

だそうです。

最初のうちは頭で考えるよりも先に身体が動いてしまう戦い方で全てを片付けようとしていましたが、王騎(おうき)将軍に修行をつけてもらったり、数々の戦(いくさ)を経験して「武将」としての力を身につけていきます。

春秋戦国時代から秦(しん)の時代に生きた武将です。

 

信の史実 

紀元前229年~紀元前228年、王翦(おうせん)が数十万の軍を率いて趙(ちょう)と対峙している時、李信(りしん)は趙(ちょう)の太原、雲中に遠征していました。

紀元前226年、王翦(おうせん)と王賁(おうほん)は、前年に燕(えん)の太子丹(たいし たん)がたくらんだ刺客(しきゃく)荊軻(けいか)による秦王・政(しんおう・せい:後の始皇帝(しこうてい))暗殺未遂事件の仕返しとして、

燕(えん)の都・薊(けい)を攻め、燕王喜(えんおう き)と太子丹(たいしたん)は遼東(りょうとう)に逃げていきました。(燕(えん)の事実上の滅亡)。

この時、李信(りしん)は、約1000の兵を率いて燕軍(えんぐん)を追い詰め、太子丹(たいし たん)を討ち取ります。

紀元前225年、秦王・政(しんおう・せい)は、楚(そ)を征服したいと思い、楚(そ)と戦うのにどれくらいの兵が必要かと王翦(おうせん)と李信(りしん)に問いました。

李信(りしん)は、「20万」が必要だと返し。

一方の王翦(おうせん)は、「60万」が必要だと答えました。

秦王・政(しんおう・せい)は、王翦(おうせん)が年老いてもうろくしたと思い、李信(りしん)を抜擢して蒙恬(もうてん)とともに楚(そ)を攻めるように命じました。

李信(りしん)は20万の兵を二つの部隊に分けて戦い、李信(りしん)は平輿(へいよ)で、蒙恬(もうてん)は寝丘(しんきゅう)で楚軍(そぐん)に圧倒的な勝利をしました。

勢いづいた李信(りしん)と蒙恬(もうてん)は、楚(そ)の首都である郢(えい)の周辺にも攻め込み、ここでも勝利をおさめます。

しかし、城父(じゃうほ)で李信(りしん)の軍と蒙恬(もうてん)の軍が合流したときに、三日三晩後を追ってきた楚(そ)の項燕(こうう)の軍に奇襲攻撃を受け、2カ所の隊を突破されてしまい、7人の将校を討ち取られて、敗北してしまいます。

命からがら逃げ帰った李信(りしん)と蒙恬(もうてん)でしたが、その失敗のせいで王翦(おうせん)と交代させられてしまいます。

そして、翌年、王翦(おうせん)と蒙武(もうぶ)が60万の兵で楚(そ)に侵攻し、楚王負芻(そおう・ふすう?)を人質にして、楚(そ)を滅亡へと追いやりました。

紀元前222年、李信(りしん)は王賁(おうほん)と共に燕(えん)の遼東(りょうとう)に攻め込み、燕王喜(えんおう か)を捕らえて、燕(えん)を滅亡させます。

さらに、趙(ちょう)が滅びたあとに趙(ちょう)の王族が興した国代(だい)に攻め込み、代王嘉(だいおう か)を捕虜として、代(だい)も滅亡させます。

紀元前221年、李信(りしん)は王賁(おうほん)と蒙恬(もうてん)と共に斉(せい)に攻め込み、滅亡に追いやります。

 

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政(せい)←後の始皇帝(しこうてい)

 

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漫画キングダムでの政(せい)

 

秦国(しんこく)第31代目の若き王で後の始皇帝(しこうてい)。漂(ひょう)とそっくりな顔立ちをしている。

趙国(ちょうこく)で幼少期を過ごしていましたが、前王が亡くなったため秦国(しんこく)に戻ります。

政(せい)の幼少期は、趙(ちょう)の民に憎まれ虐待を受けていたため、味覚・痛覚・嗅覚が全く無く、人をまったく信じようとしない屈折した性格でした。

秦王昭王(しんおう しょうおう)がなくなった後、秦国(しんこく)へ帰るために協力した紫夏(しか)との出会いを通じて失っていた五感や人を信じる心を取戻しました。

波乱の幼少期を過ごしたので、逆境を乗り越える芯の強さがあり、沈着冷静な性格で、感情を表に出すことはほとんどありません。

ただ、昌文君(しょうぶんくん)や信(しん)たちのことは信頼しているようで、表情がゆるむこともあります。

文武にも長けており、信(しん)の胸倉をつかみ、片手で持ち上げるなど、力も強いのです。

成蟜(せいきょう)の反乱を鎮圧した後、中華統一する最初の王になると言い放ち、成人して正式に王となるために呂不韋(りょふい)陣営と政権争いとなりますが、その争いに勝利し、中華統一に向け動きだします。

 

政の史実

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 – 紀元前210年)は、古代中国の春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)の秦(しん)王(在位紀元前246年 – 紀元前221年)。

姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。

現代中国語では、始皇帝(しこうてい)、または秦始皇(しんしこう)と書きあらわします。

紀元前221年に史上初の中華統一に成功し、中国初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで王として権力をふるいました。

中華統一を果たした後に『始皇帝(しこうてい)』と名をあらためた中国史上最も有名な人物であり、その後約2000年つづく中国皇帝の先がけとなった人物です。

中華統一の後始皇帝(しこうてい)は、李斯(りし)を大臣として主要な経済活動や政治改革をおこないました。

それまで行われていた部下とその一族等に領地を与えて受け継がせ土地を介して上下関係や身分関係のはっきりさせた制度から、始皇帝(しこうてい)が選び・つかわす者がおさめる郡県制を全国にいきわたらせ、国単位での通貨やはかりの単位をさだめ、交通規則を整備したりしました。

大規模事業もおこない、万里の長城(ばんりのちょうじょう)を作りあげたり、兵と同じ大きさの人形を軍隊のように配置した兵馬俑(へいばよう)で有名な秦始皇帝陵(しんしこうていりょう)をつくらせたりして、数多くの民に負担を強いたりしました。

また、法によって支配するため、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼ばれる当時の思想を無理やり押さえ込んでしまう権力の乱用をしたことでも有名です。

 

漂(ひょう)

 

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漫画キングダムの漂

信(しん)の幼友だち。信(しん)と一緒に大将軍になることを夢見て、剣術の模擬戦に精を出していました。

対戦成績は1253戦334勝332敗587引き分け+2戦分(勝敗不明)。

秦王・政(しんおう・せい)とよく似た顔つきだったため、昌文君(しょうぶんくん)に引き取られ王の城で仕事をすることになります。

ただ、その任務は秦王・政(しんおう・せい)の替え玉で、城に着くまで引き取られた理由を知らされずにいましたが、最後にはみずから進んで替え玉の任務を引き受けます。

成蟜(せいきょう)の反乱の争いの中、秦王・政(しんおう・せい)を狙った刺客(しきゃく)の徐完(じょかん)に深い傷を負わされながらも村へと帰り着き、信(しん)に思いのすべてを言い残して力つき逝ってしまいます。

初めての実戦であったであろう秦王・政(しんおう・せい)の替え玉としての任務を成功させ、苦しい状況におちいりながらも自分を支えてくれた兵たちを励ましながら戦う姿は、すでに大将軍であったと後に壁(へき)が話しています。

漂(ひょう)のお葬式には、隣の村から出席する者がいるほどたくさんの人々に慕われていました。

史実的に漂(ひょう)という人物は記されていないようで、漫画キングダムの作中のオリジナルキャラのようです。

 

羌瘣(きょうかい)

 

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漫画キングダムの羌瘣

 

伝説の刺客(しきゃく)集団『蚩尤(しゆう)』の後を継ぐ者として育てられた羌族(きょうぞく)の女剣士。

年齢は信(しん)の一つ年下。

緑穂(りょくすい)という剣を武器に超絶的な剣術をふるう。

蚩尤(しゆう)を選ぶための儀式『祭(さい)』で姉のように慕っていた羌象(きょうしょう)を失ってしまいます。

その後、復讐を最優先して生きる道を選び、放浪の旅へとでていきます。

しかし羌族(きょうぞく)の一族からは、『祭(さい)』で勝ち残ってもいないのに外界へ出ているため、裏切り者としての扱われています。

漫画キングダムで信(しん)と出合った当初は無口で近寄りがたかったものの、徐々に周囲に心を開くようになり、飛信隊(ひしんたい)を自分の居場所だと思うようになっていきます。

現在では飛信隊(ひしんたい)の副長として、3千の兵を率いるまでに成長しています。

 

史実の羌瘣

 

羌瘣(きょうかい)も、かなり少ないですが史実的に記録が残っています。

最初の記録は紀元前229年、「代(だい)を討った」とあります。

紀元前229年(始皇18年)、代(だい)を伐った。

紀元前228年(始皇19年)、王翦(おうせん)と共に趙(ちょう)を攻め、幽繆王(ゆうぼくおう)を東陽で捕らえ趙(ちょう)を滅ぼした。

さらに、兵を率いて燕(えん)を攻めんと中山に駐屯した。

 

河了貂(かりょうてん)

 

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漫画キングダムの河了貂

 

黒卑村(こくひむら)に住んでいた、梟鳴(きゅうめい)という山民族の末裔。

鳥のような着ぐるみを身にまとっており、初めて見る者は謎の生き物と思う事が多いようです。

登場した頃は金のために政(せい)と信(しん)に協力していましたが、共に行動するうちに女でありながら驚異的な強さを持つ羌瘣(きょうかい)との出会いを機に、自分も戦場に立ちたいと望むようになります。

童顔で、着ている着ぐるみのせいか、登場時は性別はわかりませんでした。

成蟜(せいきょう)の反乱のときに女であることが、明らかになるのですが、河了貂(かりょうてん)がそのことを明かさなかったために、信(しん)は長い間気づいていませんでした。

史実的に河了貂(かりょうてん)という人物は記されていないようなので、漫画キングダム独自のオリジナルキャラのようです。

 

王騎(おうき)

 

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漫画キングダムの王騎

秦国六大将軍(しんこくろくだいしょうぐん)の一人。

そしてかつて昌文君(しょうぶんくん)と共に昭王(しょうおう)に仕え、中華全土で有名となった武将です。

通称『秦(しん)の怪鳥』と呼ばれています。

その武勇と戦場全体を見渡せる知略両方に長けた中華最強の六大将軍。

突如攻めてきた趙軍(ちょうぐん)との戦いでは、序盤趙軍(ちょうぐん)を圧倒的な武力で押していましたが、深追いし過ぎた秦軍先遣部隊(しんぐんせんけんぶたい)の蒙武(もうぶ)を助けに向かったところを待ち伏せていた趙(ちょう)本軍と挟み撃ちに遭い、戦闘の中、龐煖(ほうけん)に討たれてしまいます。

龐煖(ほうけん)との一騎打ちでは、ほとんど武力の差はなく、王騎(おうき)が最後の一撃を加えようとしたまさにその時、趙(ちょう)の魏加(ぎか)が背後から放った弓矢によって不意をつかれ形で龐煖(ほうけん)の矛(ほこ)につらぬかれてしまいます。

そばにいた信(しん)の迅速な行動で、すぐに戦場から脱出しましたが、騰(とう)や蒙武(もうぶ)そして信(しん)に遺言を残し、最後に信(しん)に王騎の矛(おうきのほこ)とその意思を託して力つきてしまいました。

 

史実の王騎

 

紀元前257年(昭襄王50年)、趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)を包囲した。

紀元前247年(荘襄王3年)、韓(かん)の上党(じょうとう)を攻め落し、太原郡(たいげんぐん)をおいた。

紀元前246年(秦始皇元年)、秦王・政(しんおう・せい)が王となると、蒙驁(もうごう)、麃公(ひょうこう)らと共に将軍に任命される。

実はもうひとつ逸話があります。

秦(しん)の六大将軍に王齕(おうこつ)という人物が記されているのですが、王騎(おうき)と同一人物だったのではないかという説があります・・・。

この時代に、重なる戦歴が多い事から、後世の歴史家は、王騎(おうき)と王齕(おうここつ)を同一人物として見ていますし、王騎(おうき)の古代中国でできた表音表意文字は『王齮』書くようです。

ということは、王齕(おうこつ)は、秦(しん)の名将・白起(はくき)の副将として長平の戦いで趙(ちょう)を破り、趙(ちょう)の武安君(ぶあんくん)を討ち、魏(ぎ)との戦いに勝利したり、韓(かん)の上党(じょうとう)を攻め落し、太平郡(たいへいぐん)としたり大活躍をしている事になります。

 

騰(とう)

 

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漫画キングダムの騰

 

王騎(おうき)の副官として幾多の戦場をともにし、将軍に昇格したのが騰(とう)です。

いつも王騎(おうき)の側で、王騎を補佐してきた人物で、なんとなくとらえどころがない感じの男です。

趙軍(ちょうぐん)との戦いでは、終盤で趙荘軍(ちょうそうぐん)本陣に突撃して総大将代理の趙荘(ちょうそう)を討ち取り、

その後、王騎(おうき)が深手を負うと、戦場から脱出させるために敵本陣を揺さぶるために突撃をかける等、その武力は(王騎(おうき)本人いわく)王騎(おうき)に見劣りしないと評価される程です。

合従軍(がっしょうぐん)との戦いでは蒙武軍(もうぶぐん)と連合軍となって楚軍(そぐん)と戦い、初戦で将軍の臨武君(りんぶくん)を討ち取りました。

戦闘時は剣をバトンのように高速で回転させ、多くの敵兵を片っ端から斬り捨てていきます。

その際、「ファルファルファル」という独特の音が出るのが特徴です。

 

史実の騰

 

紀元前231年、秦(しん)が韓(かん)から南陽の地を献上されると、騰(とう)は一時的に防衛の任務を任されます。

紀元前230年、韓(かん)を攻め落し、韓王安(かんおうあん?)を捕虜虜として、韓(かん)を滅亡に追いやります。

なお、秦(しん)の書記官を務めていた喜(き)という人物の個人的な所有物で『雲夢睡虎地秦簡(すいこち しんかん)』という記録には『語書』に南郡の郡守として騰(とう)名が記されています。

騰(とう)将軍は内史(ないし)という役職についていたとされています。

この内史の役目は首都と周辺の地域一帯の取りまとめ・・・運営といったとこです。

そのことから将軍としての実力はもちろん、軍才に長け、人々への影響力も強く、くわえて優秀な政治手腕も兼ね備えているかなり頭のよい人物だったということがわかります。

 

蒙武(もうぶ)

 

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漫画キングダムの蒙武

 

呂不韋四柱(りょふいしちゅう)の一人で蒙恬(もうてん)、蒙毅(もうごう)の父親。

絶対的な自信のある己の武力を、中華最強であると証明しようとして、秦王・政(しんおう・せい)に六大将軍制度の復活を申し出る。

戦い方は、自身の武力で最初に突撃して行き、そのあとに士気の高まった兵たちが押し寄せて力任せで押していくという単純なやり方。

その戦い方は

「策も何もあったものでは無い」

と悪口を言う者もいるが、そのパワーはすさまじく、昌平君(しょうへいくん)は力で策を破る唯一の男と評価しています。

合従軍(がっしょうぐん)との戦いでは、騰軍(とうぐん)と連合し、楚軍(そぐん)と戦いました。

昌平君(しょうへいくん)の提案で『斜陣(しゃじん)がけ』という策をもちいて汗明(かんめい)率いる軍の本隊へ抜ける隙間を作り出し、汗明(かんめい)と一騎打ちとなり、みごとに勝利します。

さらに合従軍(がっしょうぐん)が函谷関(かんこくかん)から撤退した後も、追撃して合従軍(がっしょうぐん)を完全に追い払いました。

 

史実の蒙武

 

紀元前224年、李信(りしん)と蒙恬(もうてん)を打ち負かした楚(そ)の項燕(こうえん)が秦(しん)を攻めてきたので、蒙武(もうぶ)は王翦(おうせん)の副将となって共にこれを迎え撃ち、項燕(こうう)は自害しました。

紀元前223年、さらに蒙武(もうぶ)は王翦(おうせん)の副将となって共に楚(そ)に侵攻し、楚王負芻(そおう ふすう?)を捕虜として、楚(そ)を滅亡に追いやった。

これを見てみると、蒙武(もうぶ)将軍は漫画キングダムの作中での登場は終盤となるはずなのに、もうすでに描かれているということは、作者独自の設定ということになりますね。

史実の蒙武(もうぶ)将軍がどのように描かれるのか楽しみにしています。

 

麃公(ひょうこう)

 

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漫画キングダムの麃公

 

ノコギリの歯みたいなギザギザの歯が特徴的な、長きに渡り戦場に身を置き続けた猛将。

長刀のような武器を振るい、敵軍に突撃する時はトゲ付の仮面と盾(たて)を装備します。

武力は王騎(おうき)と同じレベルで、軍を率いた時の破壊力は王騎軍(おうきぐん)よりもすさまじいと王騎(おうき)自身が語るほどです。

昭王(しょうおう)による咸陽(かんよう)へ戻れという命令を何度も無視していたので、六大将軍と並ぶ力を持ちながらも、その実力を認められなかった。

合従軍(がっしょうぐん)の戦いでは三倍もの兵数の趙軍(ちょうぐん)と戦い、兵力差を物ともせず一歩も譲ることはありませんでした。

合従軍(がっしょうぐん)で同じ本能型の将である慶舎(けいしゃ)でさえ見抜けなかった策を見抜かれたため、李牧(りぼく)は麃公(ひょうこう)は「本能型の極み」と評価しました。

そこへ登場した龐煖(ほうけん)との一騎打ちでは、片腕を折る奮闘を見せましたが、一歩及ばす、龐煖(ほうけん)に討たれ逝ってしまいました。

 

史実の麃公

 

紀元前246年、秦王・政(しんおう・せい)が正式に王となると、将軍の任を命じられます。

紀元前244年、韓(かん)を攻め、3万人の首を斬ったとされています。

麃公(ひょうこう)将軍は韓(かん)を攻め、3万の兵を討ち取ったようです。

同じ年に蒙驁(もうごう)将軍も韓(かん)を攻めていて、13の城を落としています。

麃公将軍が山野で戦い、城落しの達人蒙驁(もうごう)将軍が城を落しまくったのかもしれません。

 

蒙驁(もうごう)

 

キャプチャ15http://www.nhk.or.jp/anime/kingdom2

 

漫画キングダムの蒙驁

 

白老の名で呼ばれる大将軍。そしてその子が蒙武(もうぶ)で、孫が蒙恬(もうてん)・蒙毅(もうき)。

斉(せい)において廉頗(れんぱ)と何度も戦ったが、勝つ事ができず、斉(せい)での出世の道をあきらめ、子の蒙武(もうぶ)と共に秦(しん)へと移り住みます。

魏(ぎ)の山陽平定戦(さんようへいていせん)において、因縁の宿敵である廉頗(れんぱ)と40年ぶりに戦うことになる。

廉頗(れんぱ)と戦い続けて40年間練り上げた策で戦いに挑むが、突破され本陣に迫られてしまいます。

そこで廉頗(れんぱ)と一騎打ちとなり、廉頗(れんぱ)とその乗馬をも吹き飛ばす馬鹿力で対等にやり合いますが、左腕を斬られたところで、桓騎(かんき)が魏軍本陣(ぎぐんほんじん)を攻め落としたことで、山陽平定戦に勝利します。

合従軍(がっしょうぐん)との戦いでは国門函谷関(こくもん かんこくかん)を防衛する将軍として選抜され、張唐(ちょうとう)とともに奮戦し、守り抜きます。

 

史実の蒙驁

紀元前249年(荘襄王元年)、韓(かん)を攻めて成皋(せいこう)と滎陽(けいよう)を攻め落します。

紀元前248年(荘襄王2年)、魏(ぎ)の高都(こうと)と汲(きゅう)に侵攻します。また、趙(ちょう)の楡次(ゆじ)・新城(しんじょう)・狼孟(ろうもう)にも侵攻し37の城をおとします。

紀元前247年(荘襄王3年)、魏(ぎ)の信陵君(しんりょうくん)が五カ国連合軍を率いて秦(しん)に攻め込んできたを王齕(おうこつ)と迎撃したが敗北してしまい、秦軍(しんぐん)は河南(かなん)の地に退却し、そのまま帰還してしまいます。

紀元前246年(始皇帝元年)、晋陽(しんよう)で反乱が勃発したため、これを鎮圧します。

紀元前244年(始皇帝3年)、韓(かん)に侵攻し13の城を落します。

紀元前242年(始皇帝5年)、魏(ぎ)に侵攻し、現在の河南省の辺りの20の城を落し、占領し秦国・東郡(しんこく・とうぐん)とします。

紀元前240年(始皇帝7年)、様々な戦いを乗り越え、人生の幕を閉じます。

 

桓騎(かんき)

 

キャプチャ9

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漫画キングダムの桓騎

 

蒙驁軍(もうごうぐん)の副将。

来歴は秦国(しんこく)南方の盗賊の頭(かしら)でした。

一世代早く生まれていれば六大将軍に名を連ねたとされる軍才は、盗賊時代に秦(しん)の討伐軍(とうばつぐん)を相手に無敗を誇ったほどで、王騎(おうき)や蒙恬(もうてん)たちからも化物扱いされています。

盗賊時代に都を襲撃し、住民全員の首を斬ったことから「首斬り桓騎(かんき)」と呼ばれています。

将軍となってからも、降伏した敵兵をも殺してしまう残虐非道な性格です。

威張っていて、おごり高ぶった態度をとる一方、蒙驁(もうごう)将軍に対しては本人がいなくても敬語を使うなど、慕っているような一面も見受けられます。

合従軍(がしょうぐん)との戦いで函谷関(かんこくかん)の防衛の役目を命じられ、魏軍(ぎぐん)の巨大井闌車(せいらんしゃ)を焼き払いました。

その後、張唐(ちょうとう)と共に韓軍(かんぐん)本陣へ紛れ込み韓軍総大将・成恢(かんぐんしょうだいしょう・せいかい)を討ち取ることに成功します。

その後は魏(ぎ)の汲(きゅう)に侵攻し、さらに趙(ちょう)方面へと進み、黒羊丘を攻略するために飛信隊(ひしんたい)と合流します。

信(しん)と一悶着あったものの、残虐非道な策で黒羊丘の戦いには勝利します。

 

史実の桓騎 

 

史実で参考とした武将はおそらく秦(しん)の将軍桓齮(かんき)ではないでしょうか。

紀元前237年に将軍となり、王翦(おうせん)・楊端和(ようたんわ)らと趙(ちょう)の鄴(ぎょう)を攻め、その周りの9の城を落とします。

紀元前234年には趙(ちょう)の平陽(へいよう)を攻め、敵将・扈輒(こちょう)の首を取り、10万の兵を斬首します。

紀元前233年にはふたたび趙(ちょう)に攻め込み、平陽(へいよう)と武城(ぶじょう)を攻め落とし宜安(ぎあん)に攻め込みますが、李牧(りぼく)に破れ大きな痛手をこうむります。

その後の桓齮(かんき)の記録は史実に記されていません。

怒った秦王・政(しんおう・せい)の命で、庶民に落とされたという説もあります。

また、歴史家の楊寛(ようきん)は、趙(ちょう)侵攻失敗の処罰が下る前に燕(えん)に逃亡し、樊於期(はんおき)と名を変えて刺客・荊軻(しきゃく・けいか)の秦王(しんおう)の闇討ちに手を貸したと考えています。

 

王翦(おうせん)

 

キャプチャ16

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漫画キングダムの王翦

 

蒙驁軍(もうごうぐん)の副将。王賁(おうほん)の父で王一族の現頭首。桓騎(かんき)と同じくバケモノと言われています。

怪しげな目元を隠す仮面を付け、部下にも視線も冷淡な視線を向ける。

秦国(しんこく)でもっとも危険な人物とされ、自らが王になりたいという野心を持っているとの噂があり、現に自分の領地を国と言い現し、敵将である姜燕(きょうえん)を人材登用しようとしました。

合従軍(がっしょうぐん)との戦では燕軍(えんぐん)と戦い、山岳の部族から見ても驚く程完成度の高い山砦(やまとりで)で奮戦しました。

燕軍(えんぐん)に山砦(やまとりで)を落とされますが、撤退をしたように見せかけ燕軍(えんぐん)の主力部隊八千に罠を仕掛け誘い出し、全滅させてしまいます。

そして、そのまま山中に姿を消したかと思ったら、突然、函谷関(かんこくかん)の裏手に現れた楚軍(そぐん)を撃退して函谷関(かんこくかん)の危機を救いました。

 

史実の王翦

 

紀元前236年(始皇11年)、桓齮(かんき)・楊端和(ようたんわ)らと趙(ちょう)の鄴(ぎょう))を攻めて先ず9城を取りました。

王翦(おうせん)は一人で閼与(あつよ)などを攻めます。

それから、皆兵をあわせて一軍としました。

そして18日間で軍の中での身分の低い者や武功のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成しました。

そして、それまで落とせなかった鄴(ぎょう)などを攻め落としました。

紀元前229年(始皇18年)、秦(しん)は大軍を用意して、王翦(おうせん)は軍の総大将として趙(ちょう)の井陘(せいけい)を攻め落として従わせました。

紀元前228年(始皇19年)、羌瘣(きょうかい)と趙(ちょう)を攻め滅ぼし、次々と領土を取り、幽繆王(ゆうぼくおう)をつかまえます。

ところが、趙(ちょう)の公子嘉(こうし か)が独立して代の王(だいのおう)になります。

さらに兵を率いて燕(えん)を攻めようとして中山(ちゅうざん)という異民族国家に駐屯しました。

紀元前227年(始皇20年)、辛勝(げきしょう)と燕(えん)を攻めて燕・代連合軍(えん・だい れんごうぐん)に易水(えきすい)の西で勝利します。

紀元前226年(始皇21年)、大援軍を与えられ、燕(えん)の太子丹(たいし たん)の軍に勝利して、燕(えん)の都薊(みやこ けい)を攻め落とします。

李信(りしん)が遼東(りょうとう)に逃げた太子丹(たいし たん)を討ち取ります。

しかし、燕王喜(えんおう き)は、遼東(りょうとう)に逃げ延びてそこの王になります。

そしてこの年、王翦(おうせん)は年老いたせいか病(やまい)にかかり将軍を辞めて帰ります。

紀元前224年(始皇23年)、秦王・政(しんおう・せい)より要請を受け、再び軍の将として、楚(そ)を攻めます。

楚(そ)との戦いに勝利した王翦(おうせん)は河南(かなん)の陳(りょう)から南の平輿(へいよ)まで占領して、楚王・負芻(そおう・ふすう)をつかまえます。

紀元前223年(始皇24年)、蒙武(もうぶ)と楚(そ)を攻めます。その時、楚の王(そのおう)となっていた昌平君(しょうへいくん)は戦死し、項燕(こうえん)は自害しました。

紀元前222年(始皇25年)、秦(しん)は大軍を王翦(おうせん)と蒙武(もうぶ)に与え、ついに楚(そ)の江南(こうなん)を占領します。

また、東越(とうえつ)の王をしりぞき、ここを会稽郡(かいけいぐん)としました。

その翌年、ついに秦(しん)は斉(せい)を滅亡に追いやり、中華統一を果たします。

 

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蒙恬(もうてん)

 

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漫画キングダムの蒙恬(もうてん)

蒙武(もうぶ)の息子で蒙毅(もうき)の兄。

漫画キングダムに登場した時に千人将並の実力を持っていましたが、祖父の蒙驁(もうごう)の考えで、より経験を積むため楽華隊(がっかたい)という特殊三百人隊を率いています。

魏(ぎ)との戦いの中で、千人将不足を補うために、臨時に千人隊に増員されます。

武人の名門・蒙家(もうけ)に生まれ、昌平君(しょうへいくん)のもとで軍学を学んでいたこともあり、軍才にも恵まれ、若くして一部隊の将として数多くの武功を挙げていますが、

とらえどころのない性格で、周囲の期待に応えることには興味がないような感じです。

しかし、気にかけている信(しん)の前では、普段は見せない本心をあらわにして、自分も天下の大将軍を目指す者であるという思いを伝え、軍法会議にかけられ処罰されそうになった信(しん)を蒙家(もうけ)の人脈をつかってもみ消したりもしている。

魏(ぎ)との戦いが勝利に終わると、正式に千人将に昇進しました。

合従軍(がっしょうぐん)との戦いで臨時の五千将を経験した後、二千人将に昇進します。

 

史実の蒙恬

 

蒙家(もうけ)は、祖父の代に斉(せい)より秦(しん)に移り住みました。

蒙恬(もうてん)は当初は文官として宮廷に入り、訴訟・裁判などの仕事に従事していました。

紀元前224年、李信(りしん)の副将として楚攻め(そぜめ)に参加し、楚(そ)の寝丘を攻めて大勝利をおさめました。

その後、城父(じょうふ)で李信(りしん)と合流しましたが、李信(りしん)の軍を三日三晩追い続けていた楚(そ)の項燕(こうえん)に奇襲され惨敗してしまいます。

紀元前221年名門の武人の出身ということで将軍となり、斉攻め(せいぜめ)では見事に斉(せい)を攻め滅ぼし、首都圏の長官となります。

紀元前215年30万の軍を率いての匈奴(きょうど)と戦いでは、オルドス地方を占領して匈奴(きょうど)を北方へ追い出し、オルドス地方の北方の国境付近に陣地を造り、長城(ちょうじょう)の建設や道路の整備などを整えていきました。

これらの成果に始皇帝(しこうてい)は大きな喜びを示し、弟の蒙毅(もうき)も宮廷に入ることを許され、蒙恬(もうてん)が外政に蒙毅(もうき)が内政にと力をそそぎ認められます。

その頃、始皇帝(しこうてい)が思想弾圧をはじめると、止める様に言って遠ざけられた扶蘇(ふそ)が蒙恬(もうてん)のところに配属されます。

そして扶蘇(ふそ)の指導の下で匈奴(きょうど)の監視に当たるようになります。

扶蘇(ふそ)は始皇帝(しこうてい)に遠ざけられ蒙恬(もうてん)の所へ配属されたとなっていますが、もうひとつの考察もあって、蒙恬(もうてん)の監視役だったという見方もあります。

紀元前210年、始皇帝が逝ってしまうと公族の趙高(ちょうこう)そして李斯(りし)の三人は不当な行為をおこない胡亥(こがい)を皇帝に立てて自らの権力をふるおうとたくらみました。

趙高(ちょうこう)らは始皇帝(しこうてい)の意思表示の公文書で、一般に公示されるものを細工し、扶蘇(ふそ)と蒙恬(もうてん)に対して自害するように命じました。

蒙恬(もうてん)はその公文書をあやしいと思い、本物かどうか確かめるべきだと反発しましたが、扶蘇(ふそ)はあやしむことなく自害しました。

蒙恬(もうてん)はなおも反発したものの、皇帝となった胡亥(こがい)からの自害しろとの命が届くとやむなく、自害しました。

蒙恬(もうてん)が逝ってしまった後、蒙毅(もうき)も趙高(ちょうこう)により、言いがかりを付けられて、蒙家(もうけ)一族は根絶やしにされてしまいました。

蒙恬(もうてん)は自害するときに

「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」

となげき、それから

「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である。」

とつぶやいて毒を飲んで自害しました。

このことについて司馬遷(しばせん)が語るには

「私は、蒙恬(もうてん)が秦(しん)のために築いた長城や要塞を見たが、山を崩し谷を埋めて道路を切り開いたこと、まことに民の労力を顧みないものである。

天下が治まった当初、負傷者たちの傷はまだなおっていなかった。

蒙恬(もうてん)は始皇帝(しこうてい)に信頼された名将だったのだから始皇帝(しこうてい)に注意をうながして、人民の危機を救い、老人を養い孤児を憐み、民の融和を図るべきであった。

それなのにひたすら始皇帝(しこうてい)にゴマをすって、長城建設という自分の業績をあげることにつとめた。

このようなことでは、兄弟ともども罪をとがめらるのも当然でなかろうか。どうして罪を地脈ごときのせいにできようか。」

と厳しく批判した。

将軍としてはたぐいまれな功績をあげた蒙恬(もうてん)でしたが、行政官としては強引であり、万里の長城建設や道路開設のために民をこき使っていたようです。

これらの事業は今現在の目で見ても大事業であり、それを短期間で造り上げるにはおそらくは民たちを動けなくなるまでこき使ったのでしょう。

 

王賁(おうほん)

 

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漫画キングダムの王賁

 

士族出身という育ちの良さに満足せず、率先して戦地におもむく志(こころざし)をもった者たちで構成された玉鳳隊(ぎょくほうたい)という完全武装の騎馬隊を率いる若き武将。

年老いたの副長からも恐ろしい方と言われるほどの軍才を持つ。

エリートだからといって努力もしないで武将の地位を得たわけではなく、得意とする槍術は持ちえた才能と幼いころからの弛まぬ鍛錬(たんれん)から磨かれたもので、達人的腕前を誇っています。

変則的軌道を描く「龍指(りゅうし)」で敵を穿(うが)ちます。

歩兵のことを「蟻(あり)のように戦うことこそ歩兵としての正しいあり方だ」と語り、独立遊軍を「貴士族出身の騎兵が行う高度な任務」だと認識しており、百姓出身の兵で構成された飛信隊(ひしんたい)が独立遊軍として肩を並べていることを良く思っていない。

合従軍(がっしょうぐん)の戦いでは騰軍(とうぐん)に配置され、臨時ではあったものの左軍を率いる五千人将の任務を与えられた。

戦いが終った後、論功行賞(ろんこうこうしょう)によって三千人将に昇進した。

 

史実の王賁(おうほん)

 

紀元前226年(始皇21年)、王翦(おうせん)と燕(えん)を攻め、燕(えん)の都の薊(けい)を攻め落し、燕王喜(えんおう き)を遼東(りょうとう)に敗走させました。

紀元前225年(始皇22年)、魏(ぎ)を攻め、黄河(こうが)の水を魏(ぎ)の都の梁(りょう)に引き込み包囲して、魏王假(ぎおう か)を捕らえ、魏(ぎ)を滅亡させました。

紀元前222年(始皇25年)、燕(えん)の遼東(りょうとう)を攻め、燕王喜(えんおう き)を降伏させて、燕(えん)を滅亡させました。

さらに、趙(ちょう)が滅びた後に趙(ちょう)の王族が代(だい)に逃げて建てた国を攻め、代王嘉(だいおう か)を捕え、代(だい)を滅亡させます。

紀元前221年(始皇26年)、李信(りしん)・蒙恬(もうてん)と共に燕(えん)を南下して斉(せい)に攻め込み、斉(せい)の都の臨淄(りんし)を包囲し、斉王建(せい おうけん)を降伏させ、斉(せい)を滅亡においやります。

こうして、秦国(しんこく)が、中華統一をはたしました。

紀元前219年(始皇28年)、始皇帝(しこうてい)は王賁(おうほん)を通武侯(これは恐らくですが・・・通武という地域を受け持つ貴族になったのだと思います。確証はありません!)に封じ、王賁(おうほん)の息子・王離(おうり)を武城侯に封じた。

子孫は、いわゆる琅邪王氏・太原王氏とされています。

史実上も漫画キングダムと同様に王翦(おうせん)の息子として若い頃より戦場で活躍していた武将です。

秦(しん)の中華統一の主要人物の一人であり、魏(ぎ)・燕(えん)・代(だい)・斉(せい)の滅亡に深くかかわっています。

王賁(おうほん)も李信(りしん)と同様に代々子孫が活躍していて、、三国志(さんごくし)の時代にも王一族の将軍が活躍していたほどです。

 

蒙毅(もうき)

 

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漫画キングダムの蒙毅

 

蒙武(もうぶ)の息子で蒙恬(もうてん)の弟。軍師候補生で昌平君(しょうへいくん)の軍師養成学校で学んでいます。

若いながらも養成学校では優秀な成績をおさめていて、蒙恬(もうてん)からも『とびきりの軍師』と太鼓判を押されています。

なぜか最初から河了貂(かりょうてん)が女であることを知っていました。

父である蒙武(もうぶ)を軍略でもって支えようと考えていたが、『力が策を超える』戦いを目の当たりにし、父に欠けているものはなかったと認識をあらためます。

蕞(さい)の戦いでは、江亜(こうあ)たちとともに参戦しました。

蒙(もう)一族は、祖父の時代に斉(せい)より秦(しん)へ移住してきました。

 

史実の蒙毅(もうき)

 

蒙恬(もうてん)が始皇帝(しこうてい)に信頼されると、蒙毅(もうき)も取り立てられ、役職は記録所の長官で、始皇帝(しこうてい)の外出時にはいつも車でお供し、宮中でもいつも始皇帝(しこうてい)の側にいました。

ある時、趙高(ちょうこう)が大きな犯罪をおかし、蒙毅(もうき)は処刑するよう命じました。

蒙毅(もうき)は法のとおり斬首とし趙高(ちょう)の官籍を除きましたが、 始皇帝(しこうてい)は趙高(しょうこう)が仕事に勤勉であるということで、罪を許して復帰させました。

このことで蒙毅(もうき)は趙高(ちょうこう)にうらまれることになったのです。

紀元前211年、始皇帝(しこうてい)は視察旅行の途中で病気になったため、蒙毅(もうき)に山川の神に祈らせました。

紀元前210年、蒙毅(もうき)が戻らないうちに、始皇帝(しこうてい)は砂漠で逝ってしまいます。

趙高(ちょうこう)は胡亥(こがい)と李斯(りし)と不当行為をするため密約を交わし、胡亥(こがい)を皇帝にして、 扶蘇(ふそ)と蒙恬(もうてん)に自害を命じました。

扶蘇(ふそ)は逆らわずに自害し、蒙恬(もうてん)は抗議したものの即位した胡亥(こがい)から自害しろとの命令が届くとやむを得ず、自害しました。

紀元前209年、趙高(ちょうこう)は有力者や反対派にウソの罪をきせて処刑し、蒙毅(もうき)もこれによって処刑されてしまいました。

 

李牧(りぼく)

 

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漫画キングダムの李牧

 

秦(しん)と趙(ちょう)がの戦った馬陽攻防戦(ばようこうぼうせん)の最中、河了貂(かりょうてん)らが観戦している古い城跡に突如現れた正体不明の男。

その正体は趙国三大天(ちょうこくさんだいてん)の一人。

かつて数多くの戦場をくぐり抜けてきた武人であり、現在は知略に長けた戦略家。

秦(しん)と趙(ちょう)の戦(いくさ)の前に匈奴(きょうど)20万を全滅させるという大規模な戦(いくさ)をしましたが、大がかりな情報封鎖によって他国はおろか、味方の趙軍(ちょうぐん)ですらそのことを知りませんでした。

戦(いくさ)を嫌っていて、非戦闘員には手をだしません。

さらに、味方の損害を増やすとわかっていることはしません。

といった考え方をする人物です。

それは若い頃、家族を失い、暴走して無謀な突撃を行なって敵将を討ち取ることに成功したものの、自分の仲間を全て失うと言う経験をしているからでした。

 

史実の李牧(りぼく)

 

『史記』において、司馬遷(しばせん)は李牧(りぼく)に関して『守戦の名将』と評しています。

紀元前234年、蘭相如(りんそうじょ)や趙奢(ちょうしゃ)といった名将を失ってしまった趙(ちょう)は、長平の戦い(ちょうへいのたたかい)で秦(しん)に惨敗し、衰退の一途をたどっていました。

さらに悪いことに老将廉頗(れんぱ)が楽乗(がくじょう)といがみ合い辞めてしまったので、北方での働きを認められた李牧(りぼく)は大将軍に選ばれ、中央に呼び出されたのです。

紀元前233年、秦(しん)は趙(ちょう)の赤麗(せきれい)と宜安(ぎあん)に侵攻しましたが、李牧(りぼく)はこの戦いに勝利します。

秦(しん)は趙の番吾にも侵攻しましたが、李牧(りぼく)はふたたび秦軍(しんぐん)に勝利します。

この時代に、秦(しん)の侵攻を一時的にでも退け、しかも秦(しん)の領土まで取った将軍は李牧(りぼく)の他にはいませんでした。

その後に楚(そ)の項燕(こうえん)が秦(しん)の攻撃を防いでいます。

紀元前229年、秦(しん)の王翦(おうせん)が趙(ちょう)に攻め込んで来たので、趙(ちょう)は李牧(りぼく)と司馬尚(しばしょう)に当たらせました。

秦(しん)は李牧(りぼく)を追い払うため、幽繆王(ゆうぼくおう)の悪巧みをする家来郭開(かくかい)に近づき、金品を差し出して趙王(ちょうおう)と李牧(りぼく)との仲を裂くことで状況を打破する戦術を使います。

郭開(かくかい)は趙王(ちょうおう)に「李牧(りぼく)と司馬尚(しばしょう)が反乱をたくらんでいる」とウソの情報を流します。

趙(ちょう)の、軍に強い影響力を持ち、軍を自由に動かす李牧(りぼく)を内心恐れていた幽繆王(ゆうぼくおう)は、郭開(かくかい)の言葉を鵜呑みにしてしまい、李牧(りぼく)を解任しようとしたが、李牧(りぼく)は王の命令を聞き入れませんでした。

そのため幽繆王(ゆうぼくおう)は、ひそかに李牧(りぼく)を捕らえて強引に任務からおろし、司馬尚(しばしょう)を解任しました。

李牧(りぼく)が捕らえられてから3ヵ月後、王都邯鄲(かんたん)は秦軍(しんぐん)に攻め落とされ、趙(ちょう)は滅びてしまいまいました。

 

龐煖(ほうけん)

 

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漫画キングダムの龐煖

 

突然現れた趙国三大天(ちょうこくさんだいてん)のひとり。

かつて秦国六大将軍(しんこくろくだいしょうぐN)の摎(きょう)を討ち取ったあと、駆けつけた王騎(おうき)に斬られ致命傷を負うが復讐するために生き延びていました。

自らを武神(ぶしん)と豪語する大男で、乱れ髪と王騎(おうき)に斬られた顔の傷が特徴。

戦いに用いる武器は先端が極端に反ったナタのような形をした矛(ほこ)。

強者を倒すことだけを生きがいとし、直感だけで強者を探し当てては殺すと言う単独行動により、軍を率いる器ではないと昌文君(しょうぶんくん)は考えています。

しかし三大天の名を預かる事から、趙軍(ちょうぐん)は龐煖(ほうけん)に命を預けており、その士気の源となっています。

李牧(りぼく)に呼び出されて燕国(えんこく)との戦(いくさ)でふたたび総大将となります。

本陣に迫っていた劇辛軍(げきしんぐん)を返り討ちにしても「本物の戦場に飢えている」と李牧(りぼく)に言い放ち、姿を消してしまいました。

合従軍(がっしょうぐん)の戦いでは追撃してきた麃公(ひょうこう)将軍と一騎打ちとなり、片腕を折られてしまいながらも麃公(ひょうこう)を討ち取りました。

中国戦国時代の趙の将軍・哲学者・弁論家・軍事思想家。縦横家および兵家としての著作を残し、悼襄王のもと名将廉頗出奔後の趙の筆頭将軍として合従軍を指揮するなど、文武に優れた才人であった。

 

史実の龐煖

 

将軍としては最初の頃は無名で見くびられていましたが、燕将劇辛(げきしん)を討つなどしてあっという間に名をあげて、この時代最後の合従軍(がっしょうぐん)の長を任命されます。

この時代でもっとも有名な名将王翦(おうせん)も龐煖(ほうけん)との直接戦うことを避けていて、理屈だけではない戦(いくさ)上手であったと考えられています。

趙悼襄王三年(紀元前242年)、燕(えん)を攻め、将軍の劇辛(げきしん)を捕虜としました。

ただ、『史記(しき)』では、龐煖(ほうけん)の友人でもある劇辛(げきしん)のほうから龐煖(ほうけん)をあなどって趙(ちょう)を攻めたことになっていて、龐煖(ほうけん)はこの戦いで劇辛(げきしん)を討ち取り、燕軍(えんぐん)の兵2万を捕虜にしたとなっています。

趙悼襄王四年(紀元前241年)、趙(ちょう)・楚(そ)・魏(ぎ)・燕(えん)の四ヵ国の精鋭部隊を率いて秦(しん)の蕞(さい)を攻めましたが、攻め落とすことができず、そのため兵を移動させて斉(せい)を攻め、饒安(じょうあん)を占領します。

同じ年に楚(そ)の春申君(しゅんしんくん)が五ヵ国の合従軍(がっしょうぐん)を率いて秦(しん)に侵攻しますが、函谷関(かんこくかん)で敗退していて、おそらくはこれと連携した動きだったと考えられています。

趙悼襄王九年(紀元前236年)、趙(ちょう)は燕(えん)を攻めて貍(り)と陽城(ようじょう)攻め落しますが、その機に乗じて秦(しん)の王翦(おうせん)・桓齮(かんき)・楊端和(ようたんわ)が趙(ちょう)に侵攻し鄴(ぎょう)や閼与(あつよ)などを攻め落します。

『韓非子』によれば、この時、燕(えん)と戦っていた趙軍(ちょうぐん)を率いていた将軍は龐煖(ほうけん)で、秦軍(しんぐん)侵攻の一報ががはいると趙軍(ちょうぐん)を移動させ、鄴(ぎょう)に向かいましたが、既にその一帯は攻め落とされて後でした。

そしてこの年、悼襄王(とうじょうおう)が逝ってしまい、子の幽繆王(ゆうぼくおう)が王となりますが、幽繆王(ゆうぼくおう)は龐煖(ほうけん)を働かせることはなく、その後、龐煖(ほうけん)は史実から姿を消してしまいます。

 

楊端和(よたんわ)

 

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漫画キングダムの楊端和(よたんわ)

 

数百年ぶりに山界を統治した王。

他の山民族の間では「血に飢えた死王」の異名をとる。

女ながらに山界一の武力を誇りと、彼女が王となってから山民族の力は強まり、その数十万の兵力は秦(しん)の役人の耳にも入るほどの噂となりました。

女だてらに自ら先頭に立って幾つもの山民族を武力で統一してきましたが、年々増えていく何重もの防壁を眺めながら常に国の狭さを感じていました。

戦(いくさ)でも和でも手段は問わず国を広げたいという強い思いを胸に抱いており、かつてない国の広がりを求めて、政(せい)と強固な盟を結んで王都奪還に力を貸しました。

成蟜の反乱(せいきょうのはんらん)後は北方の匈奴(きょうど)討伐に出陣。

さらには北の大勢力パンコ族との一大決戦へと赴いていたが、秦国(しんこく)の危機を知り、政との盟約の為、それまでの全ての戦績と犠牲を投げ打って蕞(さい)の城の防衛戦に援軍として駆けつけます。

山の民の奇襲により合従軍(がっしょうぐん)は退き、秦国の人々は山の民に深く感謝しました。

 

史実の陽端和(ようたんわ)

 

紀元前238年(始皇9年)、魏(ぎ)の衍氏(えんし)を攻め落としました。

紀元前236年(始皇11年)、王翦(おうせん)・桓齮(かんき)とともに趙(ちょう)の鄴(ぎょう)を攻め落としました。

紀元前229年(始皇18年)、河内(かだい)の兵を率いて趙(ちょう)の首都である邯鄲(かんたん)を包囲します。

翌年、王翦(おうせん)と羌瘣(きょうかい)が趙(ちょう)を攻め滅ぼしました。

『史記』の記録では同じ名前の将軍ですが、山界を統治する女王でも、美しい女将軍でもなく、王翦(おうせん)の副官だったのかもしれません。

 

昌文君(しょうぶんくん)

 

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漫画キングダムの昌文君

 

政(せい)を補佐する最高の官吏で、後に左丞相(さじょうしょう)へ昇進します。

昭王(しょうおう)の時代から武人として活躍してきた本物の武将であり、ほとんど知る者がいなかった摎(きょう)の過去を知っていたなど、実戦の経験は数知れない。

成蟜の反乱(せいきょうのはんらん)の前に武官から文官に立ち位置を変え、その共通の目的を持つ人々の排他的な仲間を秦王派(しんおうは)として立ち上げます。

このとき成蟜の反乱(せいきょうのはんらん)の際に無力であった自分を恥じ、文官の最高職である丞相(じょうしょう)を目指すことを宣言していました。

 

史実の昌文君

 

紀元前238年、嫪毐が背くと昌平君と共に鎮圧した。

もともと、名前がハッキリしていない昌文君(しょうぶんくん)

昌文君(しょうぶんくん)について、分かっている事はほとんどありません。

いつ頃かは分りませんが秦(しん)の相国になり、紀元前238年に嫪毐(ろうあい)が 反乱を起こすと、昌平君(しょうへいくん)と共同で反乱を鎮圧したとある位です。

まず第一に、彼は名前自体が明らかではなく、昌文君(しょうぶんくん)というのは、爵位(しゃくい)のひとつで、秦国(しんこく)のいずこかに領地を持っていた事を意味しています。

例えば、楚(そ)の春申君(しゅんしんくん)は、本名は黄歇(こうあつ)ですが、めざましい業績があり、淮北(わいほく)の12県を領地として与えられて春申君(しゅんしんくん)と名乗るようになります。

○○君というのは本名ではなく爵位(しゃくい)のひとつなのです。

ようするに、昌文君(しょうぶんくん)の本当の名前は明らかになっていないのです。

 

昌文君の出身は楚?

 

昌文君(しょうへいくん)は、漫画キングダムでは、昌平君(しょうへいくん)と共に丞相(じょうしょう:現在の国務大臣)の任についていて、左丞相(さじょうしょう)の立ち居地にいます。

呂不韋(りょふい)が、その上の位の相国(しょうこく:現在の内閣総理大臣)に昇進して空席になった左丞相(さじょうしょう)に、 秦王・政(しんおう・せい)の派閥が、昌文君(しょうぶんくん)を押し込んだからです。

ところが、史実では、昌文君(しょうぶんくん)は相国(しょうこく)になっており左丞相(さじょうしょう)ではないのです。

しかしながら、昌平君(しょうへいくん)、昌文君(しょうぶんくん)が共に左右丞相(じょうしょう)の任についているということは、 まったくの作り話ではないとも考えられるのです。

その根拠は、昌文君(しょうぶんくん)は昌平君(しょうへいくん)と同じ時期に相国(しょうこく)に昇進しているからです。

左右の相国(しょうこく)が任命されたのかはわかりませんが、ふたりの関係における行動の方法は、まったくの他人としては不思議なくらいぴったり息があっているように感じます。

 

昌平君と昌文君は同時期に楚からやってきた人質

 

呂不韋(りょふい)の時代の話しですが、趙(ちょう)から春平(しゅんぺい)侯と 平都(へいと)侯という人物が秦(しん)に入って人質になっています。

楚(そ)からは、後の春申君(しゅんしんくん)と後に孝烈(こうれつ)王になる公子完(こうし かん)が 昭襄王(しょうじょうおう)の時代に秦(しん)に人質として入ってきています。

どうやら、秦(しん)に入る人質は中心となる人質とそのお付きの人という形で2名でやってきていたような感じなのです。

そう考えると、昌平君(しょうへいくん)と昌文君(しょうぶんくん)は同じ時期に楚(そ)から秦(しん)に入って、ふたりとも優秀で相国(しょうこく)まで登りつめた人物なのではないでしょうか?

漫画キングダムではなんの関係もなく、年齢も大分違うように見えますが、実はだいたい同じ年くらいで昌平君(しょうへいくん)は楚(そ)に戻って楚(そ)の王となっていますので、 昌平君(しょうへいくん)が中止となる人質で、昌文君(しょうぶんくん)はそのお付の人という関係だったではないでしょうか。

 

昌文君も楚に帰ろうとしていた?

 

わからないことが多い昌文君(しょうぶんくん)ですが、紀元前226年に某山に移りそこで逝ったと史実に記録されています。

さらっと読んでいると、特に取り立てて言うほどのこともない記述ですが、これが事実ということであれば、この某山とは、その昔楚(そ)が、黔中(けんちゅう)郡や且蘭(しょらん)郡をおいた場所で 後に秦(しん)の黔中郡(けんちゅうぐん)になった場所なのです。

高齢になった昌文君(しょうぶんくん)が、どうして、こんな中央から離れて開けていない土地へ移ったのか?

おそらくそれは祖国に帰りたいという気持ちからではないかと思えてならないのです。

あくまで推測の域ではありますが、どうやら、秦(しん)が楚(そ)を攻めるようだと知った昌文君(しょうぶんくん)は、祖国のことが心配でたまらず

秦王・政(しんおう・せい)へ楚(そ)へ帰してほしいと願ったものの、相国(しょうこく)という重要な立場を務めた人間であるのでに許されず、

それならばせめて、楚(そ)に近い秦(しん)の領土へ行きたいと願い、そしてたどりついた黔中(けんちゅう)で病死したのではないでしょうか?

全くの推測ですが、昌文君(しょうぶんくん)が帰ることを許されず楚(そ)に近い黔中(けんちゅう)で病死した事は同じく相国(しょうこく)だった昌平君(しょうへいくん)に大きな影響を与えたのかも知れません。

そして、強引に抜け出して淮陽(わいよう)に移り戦争から身を引こうとしたものの項燕(こうえん)や楚(そ)の人々に泣きつかれ、最終的には王にされたのではないでしょうか?

こうしてふたりの関係を考えると、まったくの他人とは思えず、ふたりとも楚(そ)の出身で、楚(そ)と秦(しん)の戦いに関しては、かなり複雑な思いを抱いていたと考えたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。

 

呂不韋(りょ ふい)

 

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漫画キングダムの呂不韋

 

一介の商人から一国の丞相(じょうしょう)を経て、臣下の最高位である相国(しょうこく)にまで登りつめた男。

秦(しん)の王宮内を竭氏(えつし)と二分し、権力争いを繰り広げます。

成蟜の反乱(せいきょうのはんらん)の後は秦国(しんこく)における最大規模の勢力を持ち、政(せい)に代わって政治をとり仕切っていました。

その裏では政(せい)を闇に葬ろうとしていました。(蔡沢(さいたく)曰く遊び心によるもの)

太后(たいこう)と秘密の情事の関係にあり、後宮勢力を味方に付けたために、政権争いが大きく動くこととなり、丞相(じょうしょう)の上の相国(しょうこく)にまで登りつめます。

太后(たいこう)と嫪毐(ろうあい)が毐国(あいこく)の独立を宣言しますが、呂不韋(りょふい)はすでに傘下(さんか)のものを毐国(あいこく)に忍ばせていました。

その傘下(さんか)のものがそそのかす形で政(せい)の加冠の儀(かかんのぎ)を狙って反乱が起きますが、

反乱軍が咸陽(かんよう)に攻め入り王族を討ち取った暁(あかつき)には、今度は呂不韋(りょふい)陣営が反乱軍を討ち取り、秦(しん)の王位に自らがつくという筋書きでした。

反乱軍が咸陽(かんよう)を攻める中、呂不韋(りょふい)は加冠の儀(かかんのぎ)を終えたばかりの政(せい)と会談し、互いの考えが平行線であることを改めて悟ります。

しかし、呂不韋派(りょふい は)から寝返った昌平君(しょうへいくん)の活躍もあり、反乱は鎮圧。

呂不韋(りょふい)は失脚(しっきゃく)を余儀なくされました。

 

史実の呂不韋

 

古代中国の春秋戦国時代(しゅんじゅうせんごくじだい)の秦(しん)の政治家。

始皇帝(しこうてい)の父・荘襄王(そうじょうおう)を王位につける事に力をつくし、秦(しん)で大きな影響力を持つ存在となりました。

荘襄王(そうじょうおう)により、文信侯(ぶんしんこう)を任じられます。

始皇帝(しこうてい)の本当の父親という説もあるようです。

呂不韋(りょふい)は衛(えい)という国の濮陽(ぼくよう)の出身で、商人の子として生まれ、若い頃より各国を渡り歩き商売で富を築いていました。

あるとき趙国(ちょうこく)に人質として出されていた秦(しん)の王族の末席の一人である子楚(しそ)と出会い

「奇貨(きか)居くべし(珍しいもので手元に置いておくべきだという意味)」

として子楚(しそ)を秦(しん)の王にするべく目ろむことにしました。

金を使い子楚(しそ)が名が広まるようにしたり、秦国(しんこく)にでも子楚(しそ)が王になれるように根回しをし続けました。

そのかいあってか、込み入った経過をたどったものの、子楚(しそ)は後継ぎとして認められ、王となることは確実となった。

呂不韋(りょふい)は愛人の一人を子楚(しそ)に差し出すなど子楚(しそ)を支え続けたが、一説によればこの愛人は呂不韋(りょふい)の子供を身ごもっていたとされ、その子供が後の政(せい)だったと言われています。

真相は定かではありませんが、当時からささやかれていたようで、春秋時代の史料である史記にも記されています。

 

昌平君(しょうへいくん)

 

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漫画キングダムの昌平君

 

文武に優れた秦軍(しんぐん)の総司令。

丞相(じょうしょう)となった呂不韋(りょふい)に人材登用され、以来、呂不韋(りょふい)の片腕となって活躍していました。

楚(そ)の公子でもあり、呂不韋四柱(りょふいしちゅう)の一人でもありました。

呂不韋(りょふい)が相国(しょうこく)となると右丞相(うじょうしょう)に就任します。

一方で秦軍(しんぐん)の総司令も務め軍略面の取りまとめを一手に担っています。

また、軍師の育成所を開校し、優秀な人材の発掘・育成にも力をいれています。

特に成蟜の反乱(せいきょうのはんらん)や魏(ぎ)との戦い、さらには刺客が襲ってきた時に政(せい)を守った信(しん)を最も手に入れたい若者と言っていました。

知略を重んじる軍略家ですが、李牧(りぼく)がはなつ武の空気を感じ取るなど、武人としての一面も持っています。

蒙武(もうぶ)とは幼馴染であり、親友です。実戦の指揮をとる場面はありませんが、同じく四柱の一人である蔡沢(さいたく)から「蒙武(もうぶ)より強い男」と言われています。

 

史実の昌平君

 

幼少の頃より人質として秦(しん)に入り、秦(しん)でのし上がり相国(しょうこく)となりました。

尉繚(うつりょう)と共に秦(しん)の軍事面にかかわり、たくさんの武将を育てて中華統一に力をつくしました。

紀元前238年、嫪毐(ろうあい)が反乱をおこすと昌文君(しょうぶんくん)と共に鎮圧した。

紀元前223年、楚王負芻(ふすう)が秦軍(しんぐん)につかまるり、楚(そ)が滅亡すると楚(そ)の将軍の項燕(こうえん)により淮南(わいなん)で楚王(そおう)となります。

そして、秦(しん)に反旗をひるがえしましたが、王翦(おうせん)・蒙武(もうぶ)との戦いで散ってしいます。

 

李斯(り し)

 

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漫画キングダムの李斯

 

呂氏一派所属の『法の番人』。

呂不韋四柱(りょふいしちゅう)の『法の番人』と呼ばれている人物です。

国内外の法に精通していることから『法の番人』と呼ばれるようになったようです。

呂不韋(りょふい)が相国(しょうこく)になったことで、左丞相(さじょうしょう)に任命されると思われていましたが、成蟜(せいきょう)が協力し力を増した政(せい)一派の昌文君(しょうぶんくん)に左丞相(さじょうしょう)の座を奪われてしまいました。

呂不韋(りょふい)が後宮で太后(たいこう)と密会したという噂が流れたときは呂不韋(りょふい)に詰め寄るという『法の番人』の異名に恥じない道徳的に恥じない態度を見せていました。

毐国(あいこく)の反乱に加担した呂氏派(りょしは)であり投獄されていましたが、中華統一後の国の法整備に必要と判断した昌文君(しょうぶんくん)の働きかけにより文官に復帰しています。

 

史実の李斯

 

厳格な法という定まった基準を考え方の基本とし、長さ(=度)と容積(=量)と重さ(=衡)。それを測る、ものさし・ます・はかりの統一、書を燃やし思想弾圧などを行い、秦(しん)帝国をつくりあげることに貢献しましたが、

始皇帝(しこうてい)の死後、権力闘争に敗北し討ち取られてしまいます。

若い頃は小役人として楚(そ)で仕事をしていました。

その時、李斯(りし)は便所のネズミと食料倉庫のネズミを見比べて、性質の差に気が付きます。

糞尿を食らうネズミは常に人影におびえるのに対し、食料をたらふく食らうネズミは人を恐れない。

そんな性質の差を「人はその居る環境だけで、賢さなど価値が決まってしまうのか」とため息をはき、儒家(じゅけ)の荀子(じゅんし)に入門します。

同じ弟子に韓(かん)の公子(こうし)・韓非(かんぴ)がおり、共に荀子(じゅんし)から学び、秦(しん)で呂不韋(りょふい)に面倒をみてもらうことになります。

呂不韋(りょふい)からその才能を見出され、勧められて秦王・政(しんおう せい:後の始皇帝)に仕え、その仕官となりました。

 

蔡沢(さいたく)

 

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漫画キングダムの蔡沢

 

昭王(しょうおう)のころから国政に携わっている外交官で、「強き者のみに仕える」という信念から呂不韋四柱(りょふいしちゅう)の一人に数えられています。

昭王(しょうおう)の時代には丞相(じょうしょう)を務めていたという、政界でも最古参の人物です。

現在は国家運営から一歩引いた形で外交をつかさどる立場に就任、主に出身国の燕国(えんこく)を担当しています。

合従軍(がっしょうぐん)との戦いの時には、うまい具合に他国に訪問していて、斉国王(せいこくおう)と面談することができました。

そして斉国(せいこく)に合従軍(がっしょうぐん)に加わらないように説得し、うまく話しをまとめました。

故郷を離れ、よその土地や国へ行って勉学して、主君である君主の権威の範囲内で一定の領域を支配することを許された貴族につかえたいと求めましたが、うまくいきませんでした。

 

史実の蔡沢

 

そんなある日、唐挙(とうきょ)という占い師に人相を見てもらうと、唐挙(とうきょ)は「先生の寿命は今から43年でしょう」と占いました。

蔡沢(さいたく)は笑いながら礼を言って帰り、「丸焼きの肉を食い、宰相(さいしょう)の位を与えられ、君主の前にのそばに仕える。 こうした金持ちで、かつ地位や身分が高いことが極められれば、あと43年の寿命で充分だ」と言いました。

そして、蔡沢(さいたく)は一路秦(しん)へ向かい、あらかじめ自分は優秀な知識人で、秦王(しんおう)にお会いしたら必ずや気に入られ、「范雎(はんしょ)は一朝にして王の信頼を失うだろう」と言いふらしました。

范雎(はんしょ)とは当時の秦(しん)の宰相(さいしょう)です。

秦(しん)の国内に自分を憎む者がいると知ると、さっさと宰相(さいしょう)職を辞任し、始皇帝(しこうてい)の代まで仕え続けていました。

さらに蔡沢(さいたく)は外交だけでなく 呂不韋(りょふい)の相談役でもあるらしいです。 呂不韋(りょふい)も 蔡沢(さいたく)のことを「先生」と呼んでいたようです。

 

成蟜(せいきょう)

 

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漫画キングダムの成蟜

 

政(せい)の義弟。母は王族の娘であり、自らが王族の純血種であるということに誇りを持っています。

それゆえ庶民の母から生まれた政(せい)が自分を差し置き王位についたことに強い反感を抱いています。非常にしたたかで、政(せい)から王位を強奪するために権力をエサに密かに王宮で協力者を集めていました。

そしてついに呂氏(りょし)の魏国遠征を機に竭氏(けいつし)と組んで王座強奪のためのクーデターを画策します。

一時は咸陽(かんよう)の制圧に成功しますが、政(せい)の勢力に攻め込まれて失敗しました。

反乱を制圧された城に幽閉(ゆうへい)されていましたが、一派の解放を条件に打倒呂不韋(りょふい)に協力するという申し出を送り続けていました。

そして呂不韋(りょふい)が相国(しょうこく)についたことで、追い込まれた政(せい)との取り引きが成立し、成蟜(せいきょう)は解放され、一派を使い政(せい)陣営に王宮内での実験を獲得させました。

その過程で兄の存在を認め、人間的にも成長します。

 

史実の成蟜

 

中国の秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の弟。長安君(ちょうあんくん)という身分を与えられました。

『史記』の始皇本紀(しこうほんき)には、

紀元前239年(始皇8年)、長安君成蟜(ちょうあんくん せいきょう)が軍を率いて趙(ちょう)に攻め入ったとき、屯留(とんりゅう)という場所で蒲鄗(ほこう)という人物と兵卒を従えて反乱をおこしました。

秦(しん)が成蟜(せいきょう)の反乱軍を攻撃すると、成蟜(せいきょう)は屯留(とんりゅう)で討たれ、軍隊の行政事務をつかさどる者はみな斬りあって死に、その民は臨洮(りんとう)に移されました。

『史記正義』では、成蟜(せいきょう)は屯留(とんりゅう)の城壁の中で自殺したと記されています。

 

嫪毐(ろうあい)

 

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キングダム公式ガイドブック英傑列記

 

漫画キングダムの嫪毐(ろうあい)

 

後宮に潜む唯一の男。車輪の穴に男根を差し、そのまま車輪を回すことができるという『男の強さ』を買われ色に狂う大后(たいこう)にあてがうための人材として、呂不韋(りょふい)が後宮に送り込んだ人物。

嫪毐(ろうあい)本人は女を喜ばせる以外何も獲り得はないが、大后(たいこう)は大満足のようです。

しかし、大后(たいこう)と体を重ねるうちに彼女の心の傷に気づき癒しとなろうと心がけるようになります。

ところが、大后(たいこう)が安息を求めて作り上げた毐国(あいこく)で呂不韋(りょふい)の思惑に利用され反乱軍を組織しようと考えるようになります。

にせものの秦王(しんおう)の印を使い、咸陽(かんよう)まで攻め込みますが、昌平君(しょうへいくん)の働きにより反乱は失敗。

嫪毐(ろうあい)は捕らえられ、車裂きの刑に処せられました。

 

史実の嫪毐

 

宦官(かんがん)の一人として後宮に入った男性。

実は宦官(かんがん)ではなく、呂氏(りょし)陣営の命で太后(たいこう)の伽(とぎ)を務める事のみを仕事としている巨根絶倫の男。

著雍の戦い(ちょようのたたかい)から二か月後、太后(たいこう)と共に朝廷に現れて、山陽長官に就任することを呂不韋(りょふい)に認めさせました。

さらに、太后(たいこう)と共に山陽(さんよう)から太原(たいげん)へ移ります。

史記呂不韋伝(しきりょふいでん)によると、嫪毐(ろうあい)は巨根で知られ、宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたと記されています。

その特長ゆえに、秦(しん)の宰相呂不韋(さいしょう りょふい)に見出されました。

呂不韋(りょふい)は秦王・政(しんおう・せい)の母親・太后(たいこう)と長年不倫関係を続けていましたが、淫乱な太后(たいこう)を老年に差し掛かった彼が満足させることが難しくなり、同時にその関係は非常に危険なことでした。

そこで関係を清算したがっていた呂不韋(りょふい)は、自身の身代わりとして嫪毐(ろうあい)を後宮に送り込みます。

王以外の男性で後宮に出入りできるのは、男性器を切除した宦官(かんがん)のみであり、巨根が売り物の嫪毐(ろうあい)を性器切除しないままで後宮に入れるにあたり、髭を抜き取るなどして宦官(かんがん)のような容貌に変えさせ、さらに性器切除手術の記録をでっちあげるなどの裏工作をします。

密告により秦王・政(しんおう・せい)に知られることになって、内偵により太后(たいこう)との密通が露見します。

驚いた嫪毐(ろうがい)は、秦王(しんおう)の印を盗み出して兵を集めて反乱を起こそうとしました。

しかし、すでに反乱に備えていた秦王・政(しんおう・せい)によって返り討ちに会い、逃亡したものの捕らえられて車裂の刑に処されました。

続いて嫪毐(ろうあい)の一族や太后(たいこう)との間に出来た子供もすべて処刑されました。

 

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